facebook連載短編小説     「転校少年Z」
 
                原作/湾田船夫  原案/原田 安友
 
《転校の美学》
 父が保険会社の支店長だった私は、好むと好まざるとにかかわらず小学校時代に4回、中学校時代に2回、計6回の転校を経験した。その都度、友達を総入れ替えすることに慣れてゆき、子供心に転校を味方に付けるずる賢さを身に付けていった。過去を整理し、新しい環境との一日も早い順応を迫られる転校だが、私にとってはいつしか、クラス内で一挙に地位を上げることのできる願ってもないチャンスとなった。

 転校初日と2日目は好奇の目にさらされる。ここはぐっと耐え、無愛想を貫かなければならない。勝負は3日目。相手にイケ好かない奴だと思わせて、急に愛想よくする。ボソッと勉強を教えてやる。3回三振を重ねて、ここぞという時に渋いランニングホームランを打って「いやあ、まぐれだよ。」とはにかむ。いじめられると感じたら、そいつの取り巻きから崩していく。

 かくして私は、4回目の転校をした小学6年生で、学級委員長にまで上り詰めた。「なんだ、それだけのことか。」と馬鹿にする人がいるかもしれないが、たいして成績も良くない背の低い童顔の転校生が、転校後わずか4ヶ月で学級委員長になるということは、市議会から鞍替えした新人国会議員が当選後4ヶ月で総理大臣になるほど有り得ないことなのだ。

 しかし私には、私をそうさせるきっかけとなった、今でも忘れられない恥ずべき思い出がある。

《初めての転校》                          
 それは私が初めて転校を経験した、小学校2年の春の出来事だ。学校の名前は岡山市立くぬぎが丘小学校。校歌もはっきり覚えている。「♪瀬戸の潮風 澄んだ風 はずむ良い子のスキップは 続くよ緑の 丘の上‥‥」

 新学期の初登校の日、クラスに2人の転校生が紹介された。一人は私。もう一人は背の高い女子だ。担任の先生の促すままにお辞儀をして同じ席に着いた二人をクラスの笑い声が囲んだ。その女子と比べ、はるかに低い私の身長が原因らしい。転校生が味わう不可解なリズムの変化。即座に隣の転校生をにらみつけた私。私の気が強いと言うだけ。その子がいじめられるべき何の落ち度も無かった。幼さがゆえの気まぐれ、はたまた気晴らし、私のいじめが始まった

 以来その子は隣の席。身体が大きいくせにおとなしかった。からかわれても詰め寄られても我慢強かった。私はわざと彼女の消しゴムをひじで床に飛ばしたり、ノートをそっと机の中に隠したりした。でも彼女は何も言わず黙ってそれを元の場所に戻した。

 休み時間が終わり、彼女が席に着こうとしたとき、椅子をそっと後に引いた。彼女はドスンと尻もちをつき、恥ずかしそうにすばやく椅子に座った。黙って下を向いたまま涙ぐんでじっとしていた。怒らないことが、何か見下されているようで、次第にいじめは陰湿になっていった。そんな矢先、わずか一学期で、彼女は何も言わず再び転校していった。自分が原因だろうか?生まれて以来のショックだった。

 一週間後、更なるショックが私を襲う。彼女から手紙が届いたのだ。恐る恐る開いたその便箋には「仲良くしてくれてありがとう。‥‥‥ 」と書かれていた。頭を太い丸太でゴーンと叩かれた気がした。それ以来私は、二度と女の子をいじめるのはやめようと固く心に誓ったのだった。             

 《「Z」の称号》
 小3の春、岐阜県の北部の小学校に転校した。珍しい輪唱の校歌だった。「春は(春は)君と(君と)追いかけし(追いかけし)各務ヶ原の影法師‥‥‥‥‥‥」
 私の苗字は「湾田」だから、五〇音順でいけば出席番号は必ず最後になった。アルファベットの最後の文字に例えて、担任の先生が「Z君」と紹介したものだから、私のあだ名はいつの間にか「ゼット」になった。背は低いが運動神経抜群の私は、すぐガキ大将仲間で頭角を現した。

 放課後体育館でバスケットボールを高く投げ上げる遊びをしていたとき、背の高い滝川という同級生がちょっかいを出してきた。私が投げようとすると上から手を出して遮った。頭にきた私は、彼の尻ポケットからのぞいていた小銭入れの財布を奪って二度三度天井高く放り上げてからかった。ところが、四度目、なんとその財布が体育館の梁の鉄骨に乗ったまま落ちてこない。皆でバレーボールやドッジボールをぶつけてみたが、とうとう二度と落ちてくることはなかったし、取る方法も思いつかなかった。「財布の中身はいくらなんだ?」と聞いた担任の先生に滝川くんは「2万5百円」と答えた。

 翌日、2万5百円を持った父が学校に呼ばれた。私はこってり絞られた。小学生が財布に2万5百円も入れているわけがない。この野郎、これからたっぷりいじめてやる!と心に誓ったその秋、父の転勤でまたしても転校になった。但し、この小学校には6年生でもう一度帰ってくることになる。2万5百円の話はそのとき意外な展開へと続くのだ。

《少年の名は「お漏らしZ」》
 父の今度の転勤先は神奈川県の川崎だった。私は3年の秋から5年の冬までを川崎市立北野川小学校で過ごした。転校も2度目となると慣れたもの、と思ったのはほんの数日。今まで経験したこともないジャンボ校での学校生活は、まるで生き残りを賭けた戦争だった。校歌からして行進曲風だ。「進めぼくらは 川崎の 橘の丘の その北の あすなろの木の育つように‥‥‥‥‥‥」足踏みしながら歌わされる校歌は初めてだった。リズム感の悪い子は右手と右足の出るタイミングが同じになった。

 東京オリンピックを前に健康が叫ばれ、学校給食も充実してきた時代。同じクラスにどうしても脱脂粉乳が飲めない牛島という子がいた。こいつが悪だった。童顔で背が低いくせに生意気な私に、何かにつけて高圧的態度に出た。
「おい、ゼット。お前プールで小便しただろう。ブルブルっと震えるのを見たぞ。」

 確かにした。だが、誰だって経験があるはずだ。私が認めると、そいつの子分たちが私を職員室に連行した。
「先生、こいつ、転校生のくせにプールに小便しました。」
「転校生のくせに」だけ余分だ。

 先生に厳しく注意されたうえに、次の日から私のあだ名は「お漏らしゼット」になっていた。「マジンガーゼット」ならぬ「お~も~ら~し~ゼット!」のアクションがクラスで大流行した。どんなアクションだったかって?平泳ぎが急に早いバタ足になり、ゼット!のところでブルブルっと身体を震わせながら両手で「Z」を作るというものだ。機会があったら動画サイトにアップしておこう。

 さて、私の逆襲が始まった。その作戦は牛島の三人の子分を一人ずつ寝返らせてゆくというものだった。三人とも単体ではただの臆病者だった。一人のところを待ち伏せして、小突き上げて出鼻をくじき、そのあと優しくしてやった。誰かが牛島にチクろうとすると、その都度同じことを始めからしてやった。牛島に子分がいなくなったところで、ついに私は決闘を申し込んだ。小さくともパワーの塊。そのうえ素早い動きで終始圧倒。最後は牛島がべそをかいて謝った。私は許す代わりに交換条件を付けた。「毎日、脱脂粉乳を二人分飲め!」

 牛島がその後、今日まで健康でい続けられるのは、小学校を卒業するまで私の言いつけを守ったからに他ならない。    

《「Zの掟」》
 気が付くと4年生になっていた。クラス換えがあり、私は9クラスのうちの黄緑組になった。黄緑組はまだいい方で、赤紫組や黄橙(きだいだい)組はその毒々しい名前だけで可哀想だった。「お漏らしZ」のパフォーマンスはもはや全校はおろか隣の小学校にまで普及し定着していた。いつか川崎に来ることがあって、中年男が宴会でやりかねないそのパフォーマンスを目にしたら、この私が起源だということを思い出して欲しい。

 4年生の一年間は私にとって人生の絶頂だった。みんなが私を恐れ崇拝したものだから、当の本人も少しばかり増長した。「Zの誓い」「Zの陣地」「Z作戦」「Zの掟」‥‥全て私が作り上げた。誓いを破ったものは陣地から追われ作戦から排除された。しかし、翌日には何食わぬ顔で仲間に復帰できた。それこそが子供らしい「Zの掟」というものだった。

 3学期、調子に乗って彼らをこき使いすぎたかな?と思った矢先、子分と思っていた奴らが反乱を起こした。夕暮れの我が家に徒党を組んで押しかけて来たのだ。私を非難するプラカードを持った奴もいた。母親は真っ青に、父親は真っ赤になって私を叱りつけたから九死に一生を得たが、戦国時代なら大変な事態になっていただろう。私はその時、小学生ながら「上から押さえつけたのではリーダーにはなれないんだ。」ということを痛いほど学んだ。

 私の荒れ様を見て度重なる転校のせいだと反省した父は、この時ばかりは会社に願い出て半ば左遷を覚悟で古巣の岐阜に転勤した。私が初めて、家族の運命を変えた出来事だった。待ってろよ、各務ヶ原の影法師達。

《のっぽの滝川》
 6年の新学期が来た。ここはそもそも「Z」の称号を与えてくれた名付け親の学校だ。なのに、出戻りとは言え誰も私のことをろくすっぽ覚えていなかった。そう、のっぽの滝川を除いては……。

 6年生ともなれば先生から転校の挨拶を要求される。私は大都会から来た背の低いお坊ちゃんとして壇上に立った。が、そこにいるのはもうあの頃の私ではなかった。予め担任の先生の了解をもらってから、いきなり例のパフォーマンスをぶちかました。
 「初めまして。私のあだ名は、オー!モー!ラー!シー!ゼッ~ト!」
クラス全体が一気に和んだ。今思えば自己紹介が既に選挙演説だった。
 そう、小学生最後のこのクラスで、私は学級委員長になろうと決めていたのだ。そのために二学期までの人気を不動にするための緻密な計画が練られ、重点目標が定められた。

   1、女の子をいじめない。
   2、標準語を使わない。
   3、現行の学級委員長を敬い強力にサポートする。

これだけで十分だと思った私がバカだった。
 5月、黄金連休明けの全校朝礼で女校長先生が自慢げに発表した
「一年後、みんなの体育館が新しくなります。天井に使われている石綿が健康の害になる恐れがあるからです。それまで剣道場が体育館代わりになります。」

 一年後にできたところでもう私は卒業してるだろう。但し、私には背中のわくわく中枢に去来する、過去の出来事があった。手を伸ばしても、頭を使っても、どうしても届かなかった天井に、あのお宝が眠っている!お金ではない。お金では買えない過去の忌まわしい秘密がついに暴かれるときが来たのだ。

 足場が組まれ、解体工事が始まった。私は1時限ごとにこっそり様子を伺った。「監督のおじさん、毎日大変ですね。」
とうとう明日、鉄骨が解体されるという日に、私は現場監督のご機嫌を取った。
「実は奥から3番目の鉄骨の上に、三年前から財布が乗っているんです。」
「知ってるよ。」
監督からは意外な言葉が帰ってきた。
「背の高い男の子が同じことを言ってきた。」         

 人の気配を感じて振り返ると、そこにいたのは滝川だった。
「そうそう、君だったね。二人ともこのヘルメットをかぶってついて来なさい。」
監督は高所作業車を自分で操って、自ら8mほど浮き上がり、そこからさらに釣竿のような伸縮棒を伸ばしてH鋼の梁のくぼみをつついた。すぐさま黒い物体が、まるで小惑星探査機ハヤブサのようにほこりの尾を引きながら、ポトリと地上に帰還した。

「それでよかったら持って帰りなさい。」
「ありがとうございまーす。」

 ぼくらは中庭のコンクリートのテーブルを挟んで向き合った。真ん中にあの小銭入れがあった。滝川は自分でチャックを開こうとはしなかった。その視線に促されて、私が開けた。カラカラに干からびた3年前の疑惑がそこに詰まっていた。

「2千5百と……46円。」
私が数えると滝川は校舎に囲まれた四角い空を仰いだ。
「ずっと謝れずにいた。」
と、言いながら私に日本海生命の封筒を差し出した。父が3年前、会社の封筒に入れて学校に持ってきたお金がそのままそこにあった
「ごめんなゼット。いつか返せる日が来ると思ってずっと持ってたんだ。ごめんなさい。」

 「Zの掟」は前の学校で私が作った非情のルールだ。謝ったら必ず翌日にはまた友達に戻らなければならない。私の怒りは腹の中でパンシロンGのように分解された。

《学級委員長選挙》
 夏休みが終わった。今日は学級委員選挙の日。この小学校では、だれかの推薦で学級委員長が決まる。前委員長が推薦したのは私ではなく、真面目で賢い女の子だった。すんなり決まるかと思いきや、滝川が手を挙げた。

「ぼくはゼットを推薦します。彼はいいやつです。」
ポケットからあの財布を引っ張り出して彼は続けた。
「ゼットが4年前この学校にいた頃、ぼくは彼にひどいことをしました。彼が体育館の天井に投げて引っかかってしまったぼくの財布に、2万円以上入っていたと嘘をついて弁償させました。でも彼は、……でも彼は……こんなぼくを………………」

そこまで言って彼は涙にむせんだ。ぽとりぽとり、彼の涙を小銭入れが受け止めた。私はそんな彼に何もできなかった。
「昨日謝ってくれたからもういいんだよ。」
そう言って壇上に駆け寄る勇気もないまま、自分の席で何度も何度も涙を拭った。

 転校をくり返し、子分しかできなかった私に、このとき初めて親友ができた。

 放課後、チョークの粉の舞う教室。クラスのみんなに囲まれて
「学級委員長ゼッ~ト!!」
と、祝福される私がそこにいた。
 
                                                                                   完