この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
 
「モシモウマデカワデタラ」  引き続き後編をお楽しみください。
 
 
 千里スタジオには駐車場を挟んで5本の樹木が植えられている。毎年、褐色のハナミズキ、朱色のヤマボウシ、黄色いケヤキムサシ、真っ赤なモミジの順番で紅葉する。そんな中、一番背の高いタブの木だけは常緑樹の特権で年中緑だ。年に一度、冬の訪れと共に、そのタブの木をイルミネーションで飾ることが我家の恒例行事になっている。
 
 木枯らしが吹き始め、車の上に落ち葉が舞う夜も、バンド練習はまだ続いていた。すでに練習の必要がないぐらい上達していたが、集まることが楽しかった。寒暖の差が激しいせいか今年の秋は紅葉が格別にきれいだ。どうせなら紅葉をバックにプロモーションビデオを撮ろうということになった。監督はもちろん私だ。いざ撮る段になって皆が怖気づき、結局、出演したのは合田友紀一人となった。え?音を聞きたい?残念ながら最初に聞く権利は酒田みさことTさんにとっておきたいのでもう少し待ってほしい。逆になかなか手掛かりがつかめないとしたら、そのときはyoutubeにアップしようと思う。
 
 11月14日、キャビン会議の日だ。梅里拓志にみさこのことを頼んで早くも1か月が経とうとしていた。ワンダーシップという組織は、38歳を過ぎて下り坂に差し掛かった人生をいかに前向きに生きていこうかという集まりだ。全体が一艘の帆船に例えられ、最高責任者は船長と呼ばれる。クルー、つまり構成メンバーはいくつかのキャビンに分けられ、そのキャビンの長を中心に集まった航海会議の決定で組織が運営されている。その日の集まり「キャビン会議」とはそういう位置付けだ。
 
 この日の議題は9日後に迫った市民会館での竹内昌彦講演会&予告編上映会の動員が全てだ。白熱の意見交換の後で私は梅里拓志の隣に座った。梅里君はすぐに察して私に耳打ちをしてきた。
 「湾田さん、今、高松、丸亀、坂出、さぬき、それぞれにあるキリスト教会ひとつずつに問い合わせをしています。もうしばらくお待ちください。」
 何も言わなくともちゃんと友情に答えてくれる。それが梅里拓志だった。

 次の日の夜、若い映画監督が我が家に泊まった。翌日早朝のラジオ番組に出演するためだ。鍋をつつきながら映画論議に花が咲いた。実は今進めている「拝啓竹内昌彦先生」の本編の映画作りの監督候補を探していた。それとなく探りを入れると
「実行委員会の皆さんが私の作品を観て、それを気に入ってくれて、どうしても私を監督に、とおっしゃるならお受けするでしょう。でも、観てもないのに監督になれでは、受けるわけにはいきません。」
当たり前の話だ。私以外の委員会メンバーが、ろくに作品も観ずにお願いするのは失礼な話だ。
 私も負けてはいない。
「ところで先日差し上げた、先生の本は読んでいただけましたか?」
と私が聞くと、
「すみません。忙しくてまだ読めていないんですよ。」
今回は痛み分けとなった。

 朝、7時からのラジオ番組は「通勤時間帯」とあって、放送局にとっては貴重なローカル枠だ。菊地アナウンサーはその番組のディレクターをかれこれ十年続けている。
「菊地正浩のおはようスタジオ!寒くなってきましたが如何お過ごしですか?今朝のゲストは、この番組初、なんと映画監督にスタジオにお越しいただいています。」
軽妙な語り口は、既に大ベテランだ。放送終了後、その菊地アナウンサーをロビーで捕まえた。

 「菊地さん、あの、例の酒田みさこの件だけど、打つ手は全部打ちました。後は香川県のキリスト教会への問い合わせを残すのみです。でも、万が一見つからなかったら万策尽きる。いつかお話していた『最後の方法』についてそろそろ教えていただけないでしょうか?」
 菊地アナウンサーは、いよいよ私の出番とばかり声を潜めた。
「湾田さん、電波ですよ、電波。私の電波は海の向こう、そう香川県にまで届いています。あなたのやろうとしていることに、私は大きな感銘を覚えています。リスナーとて同じこと。そんな今時珍しい見上げた試みをぜひ取り上げさせて欲しい。もちろんあの歌も私の番組で流すつもりです。」

「ラ、ラジオで!?」
「そう、この歌の誕生秘話とともにね。」
 菊地はいつものウインクをした。話はよく分かった。電波代はエピソード提供料とバーターだという。要は公共の電波をタダで利用できるというものだ。菊地アナウンサーの気持ちがこの上なくありがたかった。

 慌ただしく夫と子供の朝食を作るみさこがふとした弾みでラジオを掛ける。チャンネルはどこでもいい。たまたまユーミンの曲が流れているチャンネルに固定する。トントントンと包丁の音が響いてキャベツを皿に盛ろうとした瞬間、かすかに聞き覚えのある歌詞がメロディーに乗って聞こえてくる。

   もしも生まれ変われたら あなたの声が聞きたいな
   きれいな心のあなたなら きれいな声で話すだろう・・・・♪

 みさこは思わず耳を疑う。曲が終わり、菊地アナウンサーの声に変わる。
 「この曲は、今から34年前、高松市香西町に住んでいた湾田船夫さんが、ある女性から預かった詩に曲を付けたものです。詩の作者は聴覚と上肢が不自由な方で、ご自分の足の指を使って全てカタカナの詩を完成させました。詩の題は『モシモ ウマデ カワデタラ』。耳が不自由なためレとデを間違って覚えられているのです。故あって湾田さんは、その曲をその女性に聞かせることなく故郷の岡山に帰って来ました。そして今、その女性の方を探しておられます。あの時のお詫びがしたい、その一心で私共にこの曲のCDをお届けになられました。その女性のお名前は!……」

 そこまで想像して、私は若干の違和感を覚えた。みさことTさんに作った曲をこうも容易く巨大メディアで不特定多数のリスナーに聞かせていいものだろうか。まずは誰よりも早くみさこに聞かせると決めていたのではないのか?
 しかし、万策尽きたこの時点において、過去の思い出を美談として世に送り出すことのどこが悪いのか?そんな綺麗ごとを言っている余裕はもうないのだ。

 私は微妙な本心を悟られないように菊地アナウンサーに礼を言った。初回のオンエアーは11月28日と決まった。11月23日に市民会館で「竹内昌彦特別講演会&予告編上映会」があり、菊地アナウンサーはその司会で忙しくなる。よってその翌週の木曜日に白羽の矢が立った。

 「竹内昌彦特別講演会&予告編上映会」は順調に受講予約者を増やしていった。しかし、520名目の予約者あたりから伸びが鈍った。 岡山の誇り、竹内昌彦の講演会で空席を出すわけにはいかない。映画化実行委員会メンバーは必死の形相で受講者を集めた。

  この小説はほぼ実話と同時進行だ。ラジオのこと、特別講演会のこと、梅里氏の調査状況のこと‥‥がぜん身の回りが慌ただしくなった。加えて27日は愛媛県の新居浜で竹内先生の講演会&上映会が決まった。新居浜といえばエリエールの本社がある三島の隣だ。そして松山といえば「伊丹十三記念館」。映画づくりのことでぜひ宮本信子さんにも会ってみたい。会えないにしても、せめて先生の著書と予告編のDVDだけでも置いて帰りたい。

 梅里拓志からの電話が鳴ったのはそんな時だった。
「越智みさこという名の女性が東讃キリスト教会に出入りしているらしい。」 
  私はすぐさまその教会へ電話した。旧姓は分からないが年格好はほぼ一致している。障害者の介助をしながら地域おこしのイベントを手伝っているらしい。何でも、今週の日曜日、「ドジョ輪ピック・インさぬき」という催しにも参加予定だとか。

 あいにく喉風邪をこじらせていたが、私は迷わずマリンライナーに乗った。高松のホテルで一泊して高徳本線で神前(かんざき)という駅まで行った。高徳本線は2両編成の普通列車だ。イベント会場は駅からすぐの広場だ。胸が高鳴った。が、34年ぶりの再会がドジョウ汁を食べながらではいかがなものか?
 イベントは思ったより大掛かりで、市内全域からどでかい鍋を持ち寄って名物のドジョウ汁をふるまうというものだ。10時半から既に1千名の客が並んだ。その中に車椅子の客が2人いた。一人は単独で、もうひとりの初老の男性は介助者といた。

 「失礼ですが越智みさこさんですね?東讃キリスト教会さんからあなたの存在を聞きお待ちしていたのですが‥‥‥‥因みに旧姓は何とおっしゃられますか?」

「旧姓は蓮池と申します。」

 こんなこともある。わざわざ聞くまでも無かった。その女性はあっけらかんとジャージのウエストのゴムを引っ張り上げて、
「もう一杯食べれるかいの?」と別のテントの列に並んだ。歳も背格好も確かに似ている。しかし、食欲の程度がちょっと違っていた。ドジョウ汁は1杯300円。ドジョウの出汁と揚げとごぼう、手打ちうどんのコンビネーションが抜群で、この日ばかりはホッと心和む一日となった。予想の不可能な見えない大きなものが私とみさこの回りを取り囲み、すれ違う二人の運命を楽しんでいた。

 ストーリーはまたしても実話に追いついてしまった。今日から5日間は岡山市民会館での講演会&予告編上映会で忙殺される。そこにはいろんなドラマも生まれるだろう。動員がどうなったか?募金がどうなったか?数えればきりがない。しかし、この小説は「モシモ ウマデ カワデタラ」。主人公は酒田みさこと湾田船夫だ。23日の講演会については、これ以上の言及はしないこととする。もし気になる方は、「Facebook 竹内雅彦先生の半生を映画化しよう!」に詳しく載っている。

 さて、もう一つ私たちが取り組んでいる活動に「点字ブロックを守る会」の活動がある。その活動も然ることながら、別働隊が取り組むところの「点字ブロックの上に物を置かないで」ステッカーの普及が凄いことになっている。
 しかし、こちらも書かない。なぜなら、事の顛末を見届けて、近い将来小説にと目論んでいるからだ。もし気になる方は、「Facebook 点字ブロックステッカー 配り隊!貼りたい!」に詳しく載っている。

 11月23日、岡山市民会館は1000人の聴衆で埋め尽くされた。この日のためにスペシャル原稿を用意した竹内昌彦先生の講演は、会場を雪深い山里のような静かな感動の世界へと誘ったが、やがてその雪をも全員の温かい思いが溶かした。講演後に上映された私の予告編も少しは役に立ったようだった。心配そうに後部座席から見守る菊地アナウンサーに私は言った。 「いよいよオンエアーですね。もうひと仕事お願いしますよ。」

 11月27日、大きな前進が約束される日が明日に近づいた。ラジオの電波は約5百万人に届く。しかし、聞いている人はごく僅かの比率だ。仮に1%とすると5万人だ。エピソードの質、歌の出来栄えともに悪くない。冷静に考えても、1か月もすればこの歌の存在は口コミに乗って広がり、あの人の耳に届くところとなる。届いたら届いたで大変だ。歌にまつわる美談は新聞に載り、ニュースになり、この小説も注目されるだろう。Tさんも喜んでくれるだろう。正式にCD化された歌の印税の半分はTさんのものだ。仮に5万枚でも売れようものなら総額でいくらになるのだろう?計算しようと電卓を探していたときだった。
 
 「コトン」 
 
と郵便受けの閉まる音。
ぽつんと一通、送り主の名前のない花柄の封書。
「誰だ?意味深な封筒を送りつけてくる奴は。」

 無造作にそれを開けたとき、今まで生きてきた中で一番の驚きが私を襲った。封筒の中に入っていたものはなんと、私のサラリーマン時代の名刺だった。裏返すと、そこには殴り書きのボールペンで、

 【平成(25)年(12)月(24)日(午後3)時シカで待ってます。】

とあった。カッコの中以外の文字のほとんどは、紛れもなく34年前の私の筆跡だった。正確には、昭和の文字は横棒2本で消され、その上に「平成」と、珈琲館も同様に2本線で消され、「シカ」と書き加えられていた。

 エリエールの駐車場でレストランの窓越しにみさこの面影を探した、あの雨の日の記憶が蘇った。そうとも!この名刺を持っていた可能性のある人物は、この世で二人しかいない。どちらかが、何かのきっかけで私のことを知り、フェイスブックの基本データからスタジオのHPにアクセスし、住所を調べ出し、ここに送り届けたに違いない。仮にあの夜遭遇したもうひとりのウエイトレス、秋山さんだったとしたら、わざわざ人をからかうような真似はするはずがなかった。

  みさこだ!私は確信した。
 
 その夜、大変なことに気付く。ラジオ放送がそのままだ。やめさせなくては。放送されてしまえば、いかに最後の手段とはいえ、自分のしたことが完全な偽善になる。誰よりも早く聞かせたい相手に聞かせる前に、5万人の人が聞いてしまう。まして、みさこと会うのが24日なら、のべ人数では15万人どころではなくなる。つまらぬこだわりだと言う人がいるかもしれないが、それが34年の重さというものだ。

 午後11時、私は放送局に電話した。守衛が応対したが、あまりに突拍子のない申し出を理解してもらえなかった。しかたなく菊地の携帯に電話。しかし、アナウンサーというもの、プライベートな電話は夜は繋がらないようになっていた。仕方なく
「菊地さん、みさこさんが見つかったのであの歌を放送しないで。湾田より。」
と伝言をしたため、市街地まで20分車を飛ばして放送局の守衛に預けた。

 一睡もせず早朝を待った。5時半、伝言が菊地正浩に届き彼から携帯電話が入った。
「湾田さん、今さらどうしようもないよ。」
 午前6時前、放送局に駆けつけた時には、もうスタジオのぶ厚い防音扉が占められたあとだった。ディレクターに事情を説明し、私の曲をかけないようお願いしたが、私の態度が強引だったため逆に副調整室からも追い出されそうになった。

 午前6時ジャスト。副調整室のモニタースピーカーからついにあの曲のイントロが流れ始めようとしていた。スタジオを覗き込む2重ガラス越しに、菊地アナウンサーに向かって私が知りうるすべての手話をしたものだから、彼はやっと異変に気付いてドアロックを解いた。
 その瞬間、私は菊地アナウンサーにとって招かれざるゲストとなった。私は躊躇せず、生放送のために一本化されている音源のハードディスクの出力ピン端子を一気に引き抜いた。
 こんなかっこいい自分を今まで見たことがなかった。

 かくしてイントロから歌に入る一歩手前で、その歌「モシモ ウマデ カワデタラ」の処女性は守られた。が、それは同時に、放送局史上めったにない放送事故となり、裁判沙汰にはならなかったものの、私は出入り禁止となった。

【平成(25)年(12)月(24)日(午後3)時シカで待ってます。】

 それは土屋哲夫を加えた3人で、クリスマスパーティーの日程を相談しようとしたあの喫茶店だ。そういえば、香西東町の珈琲館はとっくに無くなっていたので、代わりの場所といえばシカしかなかったのだろう。
 イブのシカで何が待っているのだろうか?みさこの34年間にもいろんな出来事があっただろう。Tさんの人生はどうなっているだろう。
 
 残念だがその日まで、またまた私は手も足も出ない。私の想像で小説を終わらせてしまえるほど、彼女の人生は軽いものではなかっただろう。寂しいが、クリスマスイブまで連載も休まざるを得ない。イブには午後1時ごろ、車で岡山を出るつもりだ。遅くとも夜11時には帰って来られるだろうから、最終話のアップロードはイブの夜ぎりぎりになる予定だ。結末が気になる方はそれまで待ってほしい。

 もしその日、無事みさこに会えて、あの歌をみさことTさんに聞かせることができたとしたら、私にとってそれ以上の歓びはない。

       《もしも生まれ変われたら》
もしも生まれ変われたら あなたの声が聞きたいな
  きれいな心のあなたなら きれいな声で話すだろう
 
あなたの声が聞けたなら あなたと電話してみたい
  たった2分の夢でいい あなたのダイヤル 独り占め
 
あなたと電話できたなら 今度は歌も聞きたいな
  やさしい瞳のあなたなら やさしい歌を歌うだろう
 
もしもその歌聞けたなら あなたに拍手したげたい
  もしもこの手が動くなら パチパチ拍手したげたい
 
あなたに拍手をした後は あなたのほっぺに触れたいな
  白いほっぺの温もりに 思わず泣いてしまうだろう 
 
みさこに会えるのか?Tさんの消息は?今日この時点において、私には分かる由もない。
............................................
 
 2013年12月24日、その日。無数のケーブルの隙間から瀬戸内海が見えた。四国の物流を一変させた瀬戸大橋を時速120Kmで走る。みさことて何度もこの橋を通っただろう。朝、あれほど晴れていた空に急に雨雲が押し寄せ、岩黒島辺りでにわか雨に会う。なんのこれしき!強く願えば必ず叶う。渡り終えるまでには再び陽光が射し始めた。カーステレオからは、もちろんあの曲が大音量で流れている。
 
 緩やかに左カーブ、坂出北ICを通り過ぎ瀬戸中央道の終点だ。それからジャンクションを高松方面へ左折。高松西ICで高速道路を降り、11号線を高松とは逆方面へ走ること8分、左手にシカが見えてくる。
 
 私には確信があった。みさこは来る。駐車場へのスロープを登り車を停めた。58歳にもなれば気取りも何もない。無造作にドアを開け店内を見渡す。それらしい人影はいない。橋の上で車を飛ばした分だけ20分ほど早く着いた。広い店内は改装され昔の面影はない。だが、昔座った辺りの席を陣取った。
 
 カランコロンとカウベルが鳴るたびに玄関方向を見る。と、不意に逆方向からひとりの女が近づいてきた。私を見て無言で笑っている。1分経ってもまだ笑っている。私も無言で笑い返した。
 笑うしかない58歳の男と55歳の女の34年ぶりの再会だった。黙ったまま右手で席に座るように誘い、珈琲を注文してから小さなヘッドホンを手渡した。
 愛用のDATウォークマンの再生ボタンを押す。みさこの白い頬にみるみる紅みがさしてきた。2分、3分‥‥‥次第に潤んでいく目元。気に入ってくれたのだろうか?感動、もしくは感傷の涙を拭おうともせず、聞き終わると自ら私のDATのプレイバックボタンを押そうとした。もう一回聞きたいのだと悟り、私はリプレイボタンを押し直した。一瞬、みさこの右手の人差し指と私の左手の人差し指が触れた。スローテンポの曲に合わせて長い長い3分間が流れてゆく間に、私はみさこを観察した。身のこなし、眼差し、しなやかな指先、内面の美しさを際立たせる洋服のセンス、どこをとっても想像した通りの女性に変貌を遂げていた。

 やがて私が口を開こうとすると、みさこは首を横に振った。そして自分から話し始めた。
「34年前、この曲は既にできていたのね。‥‥‥もし聞かせてもらえてたら、きっと私は‥‥‥‥」
「ぼくの彼女になってくれてたかな?でもその頃、既にこの曲が出来てたってどうして知ってるんだい?」
「秋山さんから聞いたわ。彼女は下関にお嫁に行ったのよ。昔から湾田さんのことが大好きで‥‥‥‥、相当前からあなたの名前を手掛かりに、会社のことやあなたの周りに起きる出来事を検索しては探り当てて懐かしんでたみたいよ。たまたまこの秋、私が九州に行くついでに彼女と食事をしたとき、決まり悪そうに例の名刺を渡されたわ。いまこそ、みさこに渡すときだって。」
「それで下関の消印があったのか。でもなぜ差し出し人の名前を書かなかったんだい?」
「それは‥‥‥‥私がホームページであなたの小説を読んだから。」
 みさこは恥ずかしそうに下を向いた。
「だって、あなたは小説の中で私への気持ちに触れてたでしょう。‥‥‥はい、その私でございますって封筒に名前は書けなかったわ。いい歳してね。」

 あれから、みさこは28歳で結婚。ところが若くして夫を病気で亡くした。それから先の話は結構複雑で、読者の皆さんに公表しないほうが彼女は喜ぶだろう。明るく素直で慈愛に満ちたみさこのような人間の半生にも、やっぱり波乱万丈のドラマがあったのだ。だからこそ、日々人間は成長し、もっと優しく強くなれる。

「この詩を書いたという人は元気なのかい?」
「小笠原さんとはもう20年以上も会っていないわ。」
 
「結婚以降、彼とは疎遠になっていたのよ。でも一度、例のタイプで打った手紙が届いたわ。生きてても何にもいいことないけど、私と出会えたことだけ良かったって書いてたわ。私、ひどい女かも‥‥‥」
みさこの涼しい目がみるみる潤んだ。
「そんなんだったら私、最後まで友達でいてあげるのに‥‥‥。」

「小笠原っていう人なんだね‥‥‥きっと生きているよ。ごめんよ、思い出させて。」
 
 重度の聴覚障害者に聞いてもらう曲、それはまさに聞こえない曲だ。その聞こえない曲でさえ、音符が踊る譜面に沿って、皆がその歌を歌うときの愛おしい表情を見てもらうことができれば、少しでも彼の創造の喜びを満たすことができるだろう。みさこらの使う「罪」という言葉の意味を、私はしみじみと実感し、彼からそのチャンスを34年間も奪い続けた愚かな行為に、うなだれるしかなかった。

「大丈夫、小笠原さんに再会できる素晴らしいきっかけが出来たもの。彼の存在は歌とともに、私の記憶の中から現実の世界に復活するわ。」
見上げればそこにマリアがいた。マリアはみさこの洗礼名だ。

 7時から街の教会でクリスマスイブのミサに参加するというみさこを送るために、二人はシカを出た。そうそう、みさこの名前はこの「ミサ」に由来していることを、このとき初めて聞かされた。彼女は今でも社会のために様々な奉仕活動をしている。
  
 私も車の中で、取り留めのない話をしてしまった。
 優しくて料理上手な妻のこと、私の短所ばかりを受け継いだ愛すべき子供達のこと。合田友紀、吉井エリー、梅里拓志、オーメンズ、木下郁希‥‥‥この歌の録音に参加した愉快なミュージシャン達のこと。遅れてバンドに加わった奇跡のギタリスト、三好伸吾のこと。
 忘れた頃にふと目の前に登場して援助をしてくれる声の大きい車屋のオヤジのこと。丸1年掛けて点字ブロック啓蒙ステッカーを全ての都道府県に貼ってしまった頑固な船乗りのこと。一昨年、どうしても親友の離婚を阻止できなかったこと。
 厚かましい谷口事務局長に尻を叩かれながら、2年間竹内昌彦先生を主人公にした映画作りと募金活動を頑張ってきたこと、そして筋を通すためにその本編の監督要請をキッパリ辞退したこと‥‥‥みさこは私の決断の全てを理解し応援してくれた。
 
 桜町の教会近くの公園脇に車を停めた。7時にはまだ時間があった。CDをプレゼントしたにもかかわらず、もう一度曲を聞きたいというみさこのために、「T」さんこと小笠原さんを探し、届けるためのもう一枚のCDを聞いた。合田友紀の美しい歌声が車内を包みこんだ。何も知らない作詞者にも届くように、大きめの音量にして二人して目を閉じた。
 3分14秒後に訪れた静寂の中、みさこは34年ぶりに私の顔を覗き込んだ。清らかな眼差しは香西港で突然別れたときのまんまだった。

「もしも生まれ変われたら、‥‥湾田さんなら‥‥‥どんな人生を望む?」

「分からない。でも君との出会いがあったからこそ、ぼくは、少しはマシな人生を歩めていると思う。なぜって?いつ死んでもいいように、つねに死を背負って生きて来たつもりだからだよ。‥‥‥34年間、‥‥‥ありがとう。」

最後の五文字だけ、柄にもなく鼻声になってしまった。
 
 みさこを見送り、岡山に帰ってきたのはほんの2時間前だ。まずは庭のタブの木いっぱいに用意していた追加のイルミネーションに点灯した。千里スタジオの庭がシャンパンゴールドの流れ星で埋まった。
 軽い食事の後、パソコンに向かってこの最終話を、今日ばかりはありのままに書いている。ほんの今、「ピコン」と友達申請が舞い込んだ。申請者の名前は「酒田マリアみさこ」と記されている。さっそく申請を受理し、お礼のメッセージとでっかいスタンプを送らなければ。
 
 この日、少なくとも私にとっては一生忘れられないクリスマスイブとなった。小笠原さんの消息だけ、未だ不明なままだけど、いい加減な想像で小説を終わらせたくはない。必ず見つけ出してこの曲を届けたい。例え彼には聞こえなくとも、その想いは歌となって、これからも障害に苦しみそれを乗り越えてゆこうとする人々を優しく慰め勇気付けるだろう。もうすぐ映画になろうとしている竹内昌彦先生の生き様は、たくさんの人の心に潜む一番強い部分を呼び起こさせるだろう。
 
 
 ねえ皆さん?人生は一度きり。もしも生まれ変われたとしても、誕生とともに記憶は初期化され、甘く芳しい思い出や二度と繰り返したくない苦い過ちの全ては、DNAの不可思議な配列の中に紛れ込んでしまうのでしょう。願わくば、あなたの今このときの人生に、価値ある出来事の流れ星がいっぱい、いっぱい降り注ぎますように。                                                                                           完  

 

 

  

岡山市民会館に1000人を集めて開催した竹内昌彦講演会と予告編上映会

 

下は1年と8ヶ月に及ぶ募金を兼ねた予告編上映会の記録