facebook   連載短編小説   No.0005
                                      
            「さらばヒツイシザウルス」          
                                                                                                                          湾田船夫 (Mamoru Yamamoto)  

 その日、私は本来なら渡船に乗って、児島沖の磯でメバル釣りを楽しむはずだった。ところが、前日の新聞ニュースが予定を変えてしまった。こんなに恐ろしいニュースは久しぶりだ。
『櫃石(ひついし)島沖に破壊された漁船の破片が漂着』
『多数の目撃証言、斑(まだら)のうろこを持つ巨大爬(は)虫類か?』
これを受けて、遊漁船や小型船舶は海へ出ることが禁止された。
 30号線は岡山市の大雲寺交差点を起点に、玉野市の宇野港を結ぶ国道だ。その道をロケット弾を載せた自衛隊の装甲車がひっきりなしに下った。前から4両目の幌を被せた軍用トラックの荷台に乗って、私は揺られながら熟睡していた。秀天橋を右折か直進かで、上官が言い争いをする声で目を覚ました。上官は女だ。性格はかなりきつそうだ。
 
「どっちがいいかはっきり返事して。お皿に盛るの?ご飯にかけるの?」
軍用トラックの幌の中にビーフシチューの香りが漂っているわけが無かった。寝ぼけ眼でよく見ると、そこは屋島西町の公団住宅の狭いリビングルームだった。私は妻に正直に言った。
 
「恐ろしい夢を見た。瀬戸大橋の下に巨大怪獣が現われて釣りが中止になった。」
 
 高松で結婚式を挙げた翌年、私は岡山に転勤を命じられた。妻は高松市内の小学校の教師で私より給料が良かった。しかたなく、故郷の町に単身赴任となった私は、岡山市東区西大寺の実家と、週末に限り高松市屋島西町のアパートを行き来する二重生活となった。
 月曜の朝、春先はときどき霧が出た。フェリーが止まり、会社に遅刻しては怒られた。そのうち、霧が出そうなときは夜中に宇野に渡るようになった。濃霧注意報が濃霧警報に変わるまでにフェリーに乗ればどうにか宇野にたどり着き、どこかで仮眠をとってから出勤すればよかった。
 
 一方、実家の離れの二階は快適な二間続きの和室だ。月曜から金曜まで、毎日夜遅くまで好きなことをして過ごした。が、暇を持て余した私は、或る日妻に相談を持ちかけた。
 
 「ゴジラの映画を観たことがあるか?何年かに一度、忘れた頃にリメイクされている。俺の推測では、巨大建造物が完成するときがそのときだと思う。ゴジラは今ではすっかり正義の味方だが、何ものかが瀬戸大橋を壊そうとすると、必ずやめさせるために登場するはずだ。その何ものかを俺が造る。協力してくれ。」
 
 何を言い出すか分からないこの夫に対し、いつも「待ってました」とばかり、協力を惜しまない妻だった。
 
 
 1986年10月22日、作戦がスタートした。妻は高松で、私は岡山でそれぞれの任務をこなす。岡山・香川の架け橋はすでにここにあった。この日妻のクラスの3、4時限目は図工の時間だ。妻は一人に一枚図画用紙を用意した。
 
「今日の図工の時間は『瀬戸大橋と怪獣』というテーマで絵を描きましょう。恐い怪獣、愉快な怪獣、どんな怪獣でもかまいません。自由に活き活きと描きましょう。」
 
 その週末、30余枚の力作がリビングルームに並んだ。審査委員長の私が選んだのは、恐竜スタイルの体に緑の斑(まだら)模様のある怪獣だった。描いた子は木村光晴という男の子だ。ご両親にお願いして、これから始まる大冒険に光晴君の怪獣が果たす役割をご説明し、承諾を得た。お母さんは甲高い声で笑いながら「まさか」とだけ言った。
 
 いよいよ製作作業が始まる。材料はウレタンフォームだ。ホームセンターを巡るがちょうどのものがない。見つけたところはフランスベッド岡山支店だった。当時私が勤めていた会社の下請けとして付き合いのあった松山テント商会からの紹介だ。たしか三好伸吾という名前の支店長が鶴田浩二の鼻歌を歌いながら現われた。
 
「松山テントさんから聞いてますよ。いったいどんなウレタンをご希望ですか?」
鼻歌交じりでお客の応対とは失礼なやつだ。しかし、当時はくわえタバコでの応対すら普通だった。
「着ぐるみの怪獣を作りたいんです。どうせ最後に色を塗るので、売れ残った古いやつでいいんですが。」
三好支店長は片耳を押さえたまま続けた。
「古いやつだとお思いでしょうが、古いやつほど材料がいいんですよ。」
 
結局、新品のベッド用の高級ウレタンフォーム、1m(幅)×2m(長さ)×30cm(厚さ)を3枚購入した。費用は4万円だ。私は躊躇せず、もらったばかりの給料袋から4万円を支払った。そして軽トラを借りて実家を2往復した。最初は荷物を運んで、2度目は車を返しに。
 その荷物を実家の親は平然と迎えた。私の突拍子も無い買い物に慣れていたのだ。「元を取る」これが私のポリシーだった。
 
 中学校時代には耐水ベニア板とギターとタイプライターをねだった。耐水ベニア板は見事なわんぱくフリッパーの舟になって沼地を行く親を運んだ。ギターはそのギターで作った曲が売れて多額の印税収入になった。タイプライターはブラインドタッチの練習に精を出したため高校へあがる時には目をつぶってでも打てるようになり、結局、英米文学を学ぶために国立の大学へ滑り込み、滑り止めで受けた私立大学のバカ高い入学金も印税から支払ったので親孝行になった。ふーっ。
 
 正直、タイプライターを買ったのは本当は違う理由からだった。スパイ大作戦で目をやられたピーターグレイブスが、目が見えないくせに味方のコンピューターにアクセスし、パスワードを打ち込むシーンに一目惚れしたからだ。真実を打ち明けて謝りたくとも、すでに父はいない。
 
 さて、3枚のウレタンフォームが実家の離れの二階へ運び込まれた。設計図通りに切り抜かれ、張り合わされ、みるみる全長6.5メートルの怪獣が姿を現した。ここまで10日間。しかし、順調と思われた行程に思わぬ伏兵が潜んでいた。                                                    
 
 それはシンナーだった。11月初旬までは窓を開け放して作業すればよかったが、次第に寒くなった。一枚一枚うろこを貼ってゆく作業には大量の樹脂系接着剤を使用した。窓を閉めたまま1時間もすると頭がボーっとした。(良い子のみなさんは絶対真似をしないように。)
 仕方が無いので窓を開けて、セーターを二重に着込んだ上にスキーウエアを着て作業した。不思議なことに、完成が近づくと寒さを感じなくなる。田舎のこと、ある日、夜中の2時を過ぎても消えない灯りを見て、近所のおじさんが3人、見物に来た。
「まもる君はこんな商売をしとったんか。」
「ウルトラマンもあんたが造っとったんじゃないんか?」
 
「商売じゃないですよ。」「ウルトラマンは円谷プロですよ。」
いくら言っても信じてもらえず、その週からはラーメンや焼き芋の差し入れまでも届くようになった。
 
 その年の12月10日朝、離れの2階の窓がサッシごと外された。毛布で養生をした上にロープで6箇所を結ばれた6、5メートルの真っ白い怪獣が静かに階下に降ろされ大地を踏んだ。村中の人々から拍手が沸き起こった。白い息を吐きながら、私は2階の窓からお礼の挨拶をした。
 
 「故郷を捨てたこんな私を、やさしく見守ってくださった皆様、今日この日までありがとうございました。この真っ白い怪獣は明日、色が塗られます。そして来年、香川県の小学生たちと一緒に新幹線に乗って、あのゴジラに挑戦状をたたきつけるため京都に旅立ちます。『世の中には、夢を見る人、夢を壊す人、夢を叶える人の、三種類の人間がいる』と友達のJさんが教えてくれました。一番恐いのは夢を壊す人だそうです。なぜならそういう人は自分の夢を壊すだけでは飽き足らず、『やめとけ』『一円にもならん』と人の夢まで壊すのだそうです。夢を壊す人が誰一人いなかったこの村から、私は妻と共に、『夢を叶える人』を目指します。どうかこれからも温かく見守ってください。」
 
 集まった人々から拍手が鳴り響いた。2軒隣のおばさんは上っ張りの端で涙をぬぐった。郵便配達のお兄さんもバイクを止めて聞き入った。田んぼの向こうの平吉さんは「ワシントン大統領のようじゃ。」と褒め称えた。丘の上の尚三郎さんが「それをいうならリンカーンじゃろが。」と突っ込むと怪獣の周りは笑いに包まれた。父も母も訳が分からないまま感動した。
 
 翌日は土曜日、本来なら高松の屋島西町へ帰る日だが、私は西大寺の実家に残って終日塗装作業をした。幼虫のようなウレタンの色のしなやかな塊から、みるみる鮮やかな色の怪獣へと命が吹き込まれていった。但しこれはいわばレプリカだ。まさかレプリカがゴジラと戦うわけではない。しかし、セレモニーのための着ぐるみとしては、迫力も、大きさも、存在感も十分だった。設計にも抜かりは無い。スプレー塗料が乾き、妻が四国から到着してから、実際に私が中に入って歩行試験が始まった。
 
 
 ウレタンに併せ、接着剤、カッターナイフ、塗料、マジックテープ‥‥‥結局総制作費は6万円程になった。私の給料が手取り14万円程だったから、結構な出費と言えなくは無い。その分、用意周到に設計したものだから怪獣のフィット感は抜群だった。出入りは蛇腹の部分をマジックテープで加工し、着け外しできるようにした。真冬でも中は温かだった。さっそく田舎の道を闊歩した。歩くとユーモラスに体が揺れた。腰を振ると長いしっぽがそれらしくしなった。
 
 前方確認は蛇腹に空いたのぞき穴から行う。唯一、口の開け閉めだけは制御できなかった。村中の子供が集まってきた。子供は怪獣が大好きだ。口々に驚嘆の声を上げた。
 
 岡山・香川には当時4つの民放があった。会社に一番近いのが瀬戸内海放送だった。最後発の放送局だが、建物は最も豪華だった。そこに安富という面倒見の良い副部長がいて、この怪獣のことを話すと二つ返事でTV出演が決まった。番組は朝のローカルワイドだ。急遽、妻は校長に掛け合い半日休みを取り、前日から岡山で待機した。怪獣の中にはもちろん私が入った。
 
 朝、生放送の番組が始まった。薬師寺というアナウンサーが溜め口を連発して笑いを取った。4番目が私たちの出番だ。妻は堂々と受け答えをした。
「どうしてこんな怪獣を作ったのよ?」
「名前は何て言うの?」
「この怪獣を使って、これから何をしようと言うんだい?」
 
 全ては打ち合わせ通り、生徒が描いた絵が10枚ほどTVで披露され、最後にヒツイシザウルスの原画が披露された。妻はゴジラへの挑戦のくだりまで淀みなくしゃべった。最後は怪獣へのインタビュー。私が体を揺すると「ギャォー」と、まさに怪獣の声の効果音がタイミングよくスタジオに響いた。妻が通訳をした。
「香川の教室のみんな、観てるかい?」と言っています。
 
 結果的に、この溜め口の薬師寺、通称ヤクちゃんというアナウンサーが曲者だった。
 
 テレビで1回放送されたぐらいでブレイクするほど、世の中は甘くない。でも、どこで聞きつけたかタウン情報おかやまから取材依頼が舞い込み丸々1ページに載せてくれた。おそらくバックナンバーが残っているはずだ。
 
 ヒツイシザウルスが完成し、私の毎日は急に張り合いが無くなった。倉田交差点にキングセブンというパチンコ屋がオープンした。建築途中、現場に飛び込み営業を仕掛けた私は、見事オープン時の新聞広告の取り扱いをゲット、この出会いはやがて意外な方向へと進むのだが、とにかくその頃は、実家への帰りにそこで遊んでは小銭を得ていた。その日も2000円ほど勝たせてもらい、夜遅く実家に帰ると山陽放送のディレクターから母に伝言が届いていた。 
 
 「来週の日曜日、午前11時に櫃石島港にヒツイシザウルスと一緒に来てもらえないでしょうか?」
 
 ディレクターの名前は今でも鮮明に覚えている。しかし意地でも記述しない。当時「コミュニティーチャンネル」、略して「C&C」という番組が、民法では珍しくゴールデンタイムに放送されていた。その番組の名物ディレクターだった。私の企画の勝利だ。ついにゴールデンタイムに登場だ。しかも、瀬戸大橋ブームに沸く時代がテーマの、結構みんなが見ていた番組だから、相当な反響が期待できる。
 
 その夜、私は興奮して眠れなかった。この番組に出演できたとしたら、エリアの人気者として京都に上洛することができる。そう、まぎれもなく上洛だ。そのほほえましい一部始終はきっと全国に紹介される。但し予断だが、当時ゴジラ映画の撮影所が京都にあったかどうかは未だ定かではない。
 
 「さて、次の話題です。いよいよ完成が近づいた中四連絡橋児島坂出ルート、通称『瀬戸大橋』ですが、このたび『瀬戸大橋と怪獣』というテーマで香川の小学生の描いた絵が、関係者の努力でこんな怪獣に生まれ変わりました。
 その怪獣君、今日は絵を描いた子供達と一緒に新幹線に乗って、京都の東宝撮影所に、何とゴジラに挑戦状をたたきつけるためにやってきました。‥‥‥」
 
 小学生にここまでされて、逃げ出すわけにはいかないだろう。東宝は急遽、ほこりを被ったゴジラを倉庫から引っ張り出し、その応対に当らせるだろう。ゴジラと東宝の役員に向き合った子供達は、引率の山本先生と共に挑戦状を読み上げる。
 
 「挑戦状!大好きなゴジラ殿。僕たちはもうすぐ瀬戸大橋で本州と陸続きになる四国の香川県からやってきました。瀬戸大橋の近くで、僕たちが考えた怪獣『ヒツイシザウルス』と戦ってください。最近ゴジラさんの映画がしてないので僕たちは寂しくてたまりません。映画の中だけなら瀬戸大橋を壊しても構いませんのでどうか久しぶりに大暴れしてください。」
 
 子供達のエールに目頭が熱くなった東宝の役員さんはついつい首を縦に振ってしまう。かくしてヒツイシザウルスの着ぐるみはリアリティー溢れる素材で造り直され、昭和が生んだ大ヒーロー、ゴジラの新作映画「ゴジラ対ヒツイシザウルス~瀬戸内海の大決闘」がクランクインの運びとなったところで朝が来た。今日も仕事だ。   
                  
 
  山陽放送からの依頼はたった一言。だが、それは大変な段取りを必要とした。まずは車。当時の私の車ファミリアXGではしっぽしか乗らない。たまたま、取引先の「岡山双葉車輌」という車屋が軽トラックを貸してくれることになったのでそれに乗せることにした。横にするより、普通に立たせて手で運転席の屋根をつかませたところ、おかしいほど絵になった。雨が降ったときに備えてでかいビニールシートを用意した。ウレタンフォームと言えば聞こえはいいが、要はスポンジだ。雨が降ると荷台に溜まった水まで吸い上げるだろう。
 
 岡山市西市のバイパス沿いにある「オオツカ」は岡山双葉車輌の盟友の会社だ。仏の規矩(きく)ちゃんと呼ばれるほど温厚な性格の社長が経営する自動車会社だった。当時、展示場の片隅に小さなガラス張りのショールームが有り、日曜日までの間、怪獣をそこで保管してもらうことになった。
 
 ところで、海上輸送はどうする?当時香川県坂出と岡山県下津井の間の島々を結んで「千当丸」(せんとうまる)という定期船が日に4便走っていた。櫃石島は児島のすぐ南の島だが、香川県域だ。橋は未開通なので下津井港から折り返す、この定期便に乗るしかなかった。
 
 当日になって慌ててもいけないので電話をかけて確認をした。
「ぬいぐるみと一緒に乗りたいのですが構いませんか?」
「普通の大きさならぜんぜん構いませんよ。」
「6、5mあるんですが。」
「‥‥‥‥」応対に出た係りのおじさんはものを言わなくなった。
 結局事情を説明し、貨物扱いにすること、人を噛まないことを条件に乗せてもらえることになった。何の抜かりも無く、水曜日にはすでに準備万端整っていた。
 
 そして忌まわしいあの日がやってくる。それは日曜日ではなく前日の土曜日だった。
 
 
 確か夕方だったと思う。薄暗い実家の土間の電話が鳴った。たまたま私が電話を取った。相手は山陽放送の報道部だった。てっきり明日の確認の電話だと思いにこやかに対応したのだが、受話器から聞こえてきた声はにこやかではなかった。
 
「山本さん、ひどいじゃないですか‥‥」
「は?何がでしょうか?」 と、私。
「何がって、今朝の瀬戸内海放送の番組観たでしょう?」
「観てないですが、何かあったんですか?」 と、私。
「例の値切りマンがオオツカに行って、番組の中で車を値切ったんですよ。」
「はあ。」 と、チンプンカンプンの私。
「その後で、あなたの怪獣が値切りマンのアシスタントをしてたでしょう?」
「はあ?」 と、ますますチンプンカンプンの私。
 
 今思えばその中に私が入っていたと思い込んでいたのだろう。
「いずれにしても、他局が雇っているようなキャラクターを主人公に報道番組を作るわけにはいきません。今回のことは無かったことにしてください。」
「ちょ、ちょっと待ってくだっ。」 と、私。
正確に言えば「待ってく」で電話は切られ、後は3回も4回も「ツーツーツーツーツー」が繰り返された。
 
 瀬戸内海放送に電話したが安富副部長は何も把握していなかった。続いて営業の森君に電話してみたら、案の定、朝のTVを観て知っていた。事の次第がだんだん明らかになった。
 
 要するにこういうことだ。朝の生番組で、突然どこかの店に現われては商品を値切る「値切りマン」というコーナーがある。たまたま森君の計らいで、その値切りマンがオオツカに現われたのだが、ショールームで怪獣を発見して、「あ、この前うちの番組に出てた怪獣がこんなところにいる!」とばかり、私の了解も得ず、ADさんが中に入って生放送の中でパフォーマンスをしてしまったのだった。
 
 「やっちゃえ、やっちゃえ。これ面白いから視聴率上がるよ。」とばかり突っ走ったのが、「値切りマン」こと、溜め口の薬師寺アナウンサーだったというわけだ。
 
 
 「とんでもないことをしてくれた。」私は心から怒った。森君を通じて薬師寺に抗議をしたら、
「ちゃんと大塚社長に了解を取った。」という。
「でもこの怪獣のことを知っているのだから、私の了解を得るのが当たり前じゃあないのか!」
 
責任論に言及しようとしたとき、森君が割って入った。
「山本さん、みんな良かれと思ってやったことなんです。私に免じて許してもらえないでしょうか。」
 
 こいつに免じるほど森君は大物でも何でもない。ただの入社4年目の新米社員だった。しかし、当時から謝られることが一番弱点だった私にとって、彼の発言は最高のボディーブローとなった。マスコミに対し、こんな失態を演じた以上、ヒツイシザウルスは二度とローカルという戦場では戦えなかった。
 
 私にとって、人生最大の夢実現のチャンスはこのようにして萎(しな)びていった。
 
 翌日の日曜日、しかも真昼間に、行き場を失ったヒツイシザウルスを軽トラックの荷台に載せて、私は実家へと向かった。行き交う全ての車が、このユーモラスな怪獣を見つけた。子供も大人も無邪気に手を振った。有料道路を避け、吉井川に架かる永安橋を通り終えた頃、雨が降り出した。雨は次第に大降りになり、容赦なくヒツイシザウルスのスポンジを太らせた。
 
 私はもうビニールシートをかける元気さえ無かった。気がつくと神崎山の道端に車を横付けしていた。今ではファジアーノ岡山の練習場としてきれいな公園に変貌したこの丘へ続く道も、当時はただのあぜ道だった。
 
 真冬の嵐の中、私は車の外に出て、怪獣のびしょ濡れの足をさすってやった。こいつだけに寒い思いをさせるものか。こいつは私が初めて掴みかけた「夢実現の権化」なのだ。そう思うと、応援してくれた村の人たちの顔がひとりひとり浮かんでは消えた。「くじけるな、あんたはまだまだ若いんじゃから。」
みんながそう言っていた。
 
 雨をいっぱい吸い込んだヒツイシザウルスはふにゃふにゃで、今にも自重でつぶれそうだった。胴体としっぽを荷台に固定しているロープを解いた私は、彼をそっと横向きに寝かしてやった。それからあぜ道をバックして邑久郷経由で帰路に着いた。
                             
 この一件以来、ちょっと年下の森君とは心が通じ会い、仕事の良きパートナーとなった。次の年、瀬戸大橋が開通。私が勤めていた広告会社は瀬戸大橋博で「四国館」、「NTT館」などを担当し大いに気勢を上げた。一瞬ではあったが、岡・高は好景気に沸いた。
 
 あの時のことに責任を感じたわけではなかろうが、森君は報道部に移り、民話の語り部を訪ねて中四国を飛び回った。エリアの民話の集大成が彼の夢だった。「出世したらきっと借りを返す」が口癖だったのに、ある日旭町で居眠り運転のトラックと正面衝突して命を落とした。通夜の日、安富氏と国道フェリーに乗ってお別れに行ったが、夢を叶えずに逝った親友の悲しい姿に絶句するしかなかった。
 
 その安富氏も晩年はガンで痩せ細り、一生を会社と後輩のために捧げたままで若くして逝ってしまった。彼の夢は、岡山市中区に建てた家とは別にもう一棟、生まれ故郷の西讃に純木造平屋建てのマイホームを建てることだった。見事かなえたがそこに住めたのはほんの数年だった。
 
 溜め口の薬師寺アナウンサーは、瀬戸大橋開通の好景気を追いかけて、その年、会社を辞めて東京へ進出した。中央で活躍することが彼の夢だったのだろう。しかし、ゴルフ番組の追っかけレポーターをしている姿をちらっと見せただけで、マスコミから消えた。溜め口を貫き、今も元気でいることを祈る。
 
 大塚社長は、万人に愛されるその性格でJU岡山の理事長にまで上り詰めた。あの一件以降も、岡山双葉車輌の井上社長とともに私をバックアップしてくれて、億単位の仕事をまとめてくれたが、最愛の奥さんを病気で失うとすぐ、自分も病気で逝ってしまった。彼の夢は息子が一人前になること。両親を一度に亡くした息子ではあったが、頑張って会社を守っているらしい。
 
 そういえばあの頃、岡山市青江の日赤病院の隣に4万坪の空き地があった。井上社長や大塚社長がまだまだ若かった頃、そこに1千台近くの車を集めては展示即売会を20回近く開催させてくれた。今でいう中古車フェアの奔りだ。そこでもありがたい出逢いがいっぱいあった。当時まだ20代、大声の松浦船長と、喧嘩をしながら親交を深めた場所もここだった。
 
 やがてそのブームも収まると、そこに巨大な住宅展示場が姿を現した。山陽新聞社がコーディネイトした「ハウジングスクエア青江」だ。オープニングイベント担当の鳥越という男から、会社を辞めて独立したばかりの私に電話がかかってきた。
 
「山ちゃん、夢をかなえる怪獣、ヒツイシザウルスはまだ生きとるか?」
私は答える。
「生きていますとも。一度はくたばりかけましたが、すっかり元気になって次の獲物を虎視眈々と狙っていますよ。」
 
 怪獣の出張パフォーマンスは1日5万円。運ぶのも、中に入って暴れるのも私だ。住宅展示場の豪華な新型住宅群に囲まれたイベント広場。汗だくになりながらマイホームの夢を買いにきた家族を相手に、着ぐるみの中で必死に働く疲れ知らずの若者の姿が確かにそこにあった。
 
 ウレタンは日光や空気で少しずつ劣化する。ヒツイシザウルスの表皮は、完成後5年ほどで砂糖菓子のように剥がれ始め、記憶の大河の上を粉々になって散っていった。今となっては数枚の写真が残るのみだ。
 しかし、彼と過ごした日々は、ことあるごとに私を勇気付け、夢がかなう可能性を決してあきらめてはいけないことを教え続けてくれている。    
 
                                    完

 

 

 

 

色が塗られ、担任の山本先生と記念写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、岡山市東区西大寺の実家の離れに住んでいたヒツイシザウルス。頭を撫でてもらっている長男は30歳になった。