この小説はフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありまん。

              Facebook連載短編小説   No.0003

 
    「モシモ ウマデ カワデタラ」                       
                 
もしも生まれ変われたら      湾田船夫 (Mamoru Yamamoto)  

 こんなことを耳にするのはおそらく初めてだろうが、聴覚障害者のほとんどは口の動きだけで相手の会話を読み取ることができる。手話と併用すれば意思伝達はもっと確かになるらしい。そんな中、口の動きが余りにも似ているのでどうしても聞き分けられない文字列があると聞く。‥‥‥‥‥「ラリルレロ」と「ダディドゥデド」だ。

 昭和49年4月、司馬遼太郎の「龍馬がゆく」にすっかり入れ込んだ私は、高知大学へ進学。卒業後、広告制作業を志し、高松のとある広告会社に就職した。高校時代から歌を作るのが大好きで、大学ではフォークソング系のサークルで過ごした。投稿した曲がなんの間違いか、阿久悠、筒美京平、富田勲など、往年のビッグネームと肩を並べてLPレコードの一曲に採り上げられたこともある。

 さて、入社した年の秋、東京からUターン就職してきた土屋哲夫という、3つ年上の男が独身寮に加わった。自称コピーライターで、理屈を言う割にはさっぱりした性格のこの男と私は、妙に気が合い、寮に帰ってからも一緒に行動することが多かった。寮といっても賄(まかな)いがあるわけではなく、夕食は決まって外食だった。よく通ったのが高松市西部を細々と流れている本津(ほんず)川のほとりにある、エリエールという名のレストランだ。そう、経営していたのはあの有名な製紙会社だった。

 しばらくして、そのレストランに酒田みさこという美しいウエイトレスがアルバイトとして働き始めた。今では死語になってしまったが、当時の例えで言えば、まさに社会に出たての「スチュワーデス」だ。二か月ほど経ったある日、お調子屋の土屋哲夫にそそのかされて、名刺の裏に「珈琲館で明日(   ) 時に会いたい」とメッセージを書いて別のウエイトレスに預けたところ、何と括弧の中に“3” という数字が書き込まれて返ってきた。
 
 それが、34年に及ぶ、長い長い物語の始まりだった。          

  翌日午後3時、香西東町の三差路の喫茶店「珈琲館」に天使が舞い降りた。その服装を思い出して初めて当時の季節を認識するのは私だけだろうか?真っ白いブラウスに麦わら帽。歌のセリフではないが、確かに『♪あれは夏だったね』。
 自転車をこいだ後の熱気で頬がほのかにピンクに染まり、直視できないほどの爽やかな美しさだ。

 「ぼくは湾田と申します。岡山生まれで趣味は音楽と映画。仕事は‥‥‥‥」
 一通り自己紹介をすると、彼女もたどたどしく自己紹介を始めた。名前は酒田みさこ。家が香西の港近くにあって、昼はフェリー通りのカツマタ機械という会社に勤めているらしい。夜は週2でファミリーレストランでアルバイトをしている。 
 まるで憧れのアイドルとお茶を飲んでいるような至福のときは、約1時間後、私のポケットベルが鳴る瞬間まで続いた。当時は携帯電話など無く、公衆電話が主流。会社員、特に外回りの営業マンは、突然ピーピーピーと鳴り出す黒い小さな直方体の電子機器に管理された。

 別れ際、彼女が映画の上映会のチケットを差し出した。
「ちょっと変わった映画だけど、よかったら私と一緒に観に行きませんか?」

 映画を観たのは映画館ではなく、高松市役所のすぐ隣の特設ホールだったと思う。たしか「日本フィルハーモニー物語・炎の第5楽章」という題名で、不況のなか解散に追いやられた日フィルが、旧団員の熱意で再結成されるまでの物語だった。
「つまらなかったらごめんなさいね。」
「いいや、結構面白かったよ。」

 その日の私、実は映画のストーリーなどどうでもよかった。人生捨てたもんじゃないなあ、真面目に生きていれば本当にいいことあるんだなあ、と完全に舞い上がっていた。
 次のデートの約束をする必要は無かった。火曜と木曜の夜、彼女は決まってエリエールにいた。(  )日(  )時と書いた名刺を秋山というもうひとりのウエイトレスに渡せば、ちゃんと括弧が数字で埋められて帰って来て、その時間に珈琲館で会えた。但し、ほんのわずか美貌で劣るこちらのウエイトレスにとっては、複雑な心境だったに違いない。土屋哲夫もニコニコと二人の仲を見守っていた。

 夏から秋にかけて、微かに潮の香りを含んだ高松ならではの青春の風のなか、私と酒田みさこの2人、ときとして土屋哲夫を交えた3人の楽しい時間が過ぎていった。

 その年の11月11日、土屋哲夫の誕生日を3人で祝った。国分寺の「シカ」という店は喫茶天国の香川県でも上位に君臨する人気店だった。そこで3人は控えめな声でハッピーバースデイを歌い、近づいたクリスマスをどう過ごすかについて想いを巡らした。ところが‥‥‥‥
 
「あのー、実は私、クリスマスはダメなんです。」
さっきまではしゃいでいた酒田みさこのトーンが急に下がった。 
「あのね、クリスマスは毎年近所でパーティーがあるの。そこにはいろんなお友達も招待してて、特にTさんというお友達は、クリスマス以外にも毎月私と会うのを楽しみにしてるのよ。」
「やばい。仕事を思い出した。今日は失礼するよ。」
複雑な話かと気を利かせて、土屋哲夫は先に帰ってしまった。残された微妙な空気の中でみさこは続けた。

 「Tさんは私より6つ年上ですごくいい人。でも耳が全く聞こえないの。それと、手にも障害があるの。」
と言って、彼が和文タイプライターに向かって足の指で打ったという詩の便箋を、数枚バッグから取り出した。「T」はイニシアルでも何でもない。当時、聞くには聞いたが今となっては名前がどうしても思い出せないのだ。そこでこの小説では「タイプライター」の頭文字をとって「Tさん」と呼ぶことにしたまでだ。
 
 たわいの無い短い詩がいくつか綴られていたが、一番下の便箋には彼の素直な気持ちが読み取れる、長目の詩があった。全部片仮名だ。和文タイプに食らいつき必死に打った形跡が伺える、世界でたった一編の詩の原簿だ。

       《モシモ ウマデ カワデタラ》
モシモ ウマデ カワデタラ アナタノコエガ キキタイナ 
キレイナ ココロノ アナタナダ キレイナ コエデ ハナスダロ
 アナタノ コエガ キケタナダ アナタト デンワ シテミタイ
 タッタニフンノ ユメデイイ アナタノ ダイヤルヒトリジメ 
アナタト デンワ デキタナダ コンドハ ウタモ キキタイナ
ヤサシイ ヒトミノ アナタナダ ヤサシイ ウタヲ ウタウダロ
 モシモソノウタ キケタナダ アナタニ ハクシュ シタゲタイ
 モシモコノテガ ウゴクナダ パチパチ ハクシュ シタゲタイ
アナタニハクシュ シタアトハ アナタノホッペニ フデタイナ
シロイ ホッペノ ヌクモリニ オモワズ ナイテ シマウダロ

 何度か読むうちに、多少文学を理解することができた私は、その詩が発する普遍的な輝きに蒼ざめた。 何一つ難しい単語を並べたわけではないのに、今まで経験したことも無い純粋かつ具体的な世界がそこに広がっていた。
 
「耳が全く聞こえない人は、自分の声も聞こえないのよ。Tさんは『れ』の発音を『で』と覚えているの。だって、発音するときの口の形が一緒だから。‥‥‥それと、手、詳しくは上腕も麻痺していて‥‥‥その彼が、何日もかけて足の指で打った文章がこれなのよ。」
 私は返す言葉もなかった。「勉強しなさい、自分のためでしょう。」と育てられ、自分のために働き、自分のために生きてきた自分とは全く別の世界で、彼女のように、喜んで奉仕を生活の一部にしている人がいる。
 気がつくと彼女は私の顔を覗き込んでいた。

「湾田さん、お願いがあるの。この詩に曲を付けてもらえないかなあ。Tさん、喜ぶと思うんだけど。」
「いいよ。文字数の関係で多少詩をいじるかもしれないけど、僕でよかったらやってみるよ。」
快諾し、その日は店を出た。

 午後7時頃の国分寺は瀬戸大橋開通を数年後に控え、飲食店や量販店の出店ラッシュだ。助手席の彼女はいつになく嬉しそうに窓を走る夜景を見ている。帰り道で何を話したか、私はなぜか全く覚えていない。でも心に決めていた。
 港の入口に車を止めた。彼女をここまで送ってくるのは2度目だ。何かを悟ってか、車から降りようとしない彼女に、自分の素直な気持ちを伝えようとタイミングを図った。不器用な時が流れた。でも意を決して切り出した。 
「僕は、君のことが、その、なんて言おうか‥‥僕と‥‥あの、君と、もしよかったら、僕と、」

 舟を照らすナトリウム灯のわずかな光のなか、彼女は真剣な表情で、5秒うつむいてからやっと私の目を見つめた。
「湾田さんは‥‥神様が‥‥本当にいると思う?」         

「え?‥‥‥」意表をつくスライダーに手も足も出ない私。
「人は誰も死を背負って生きているの。私も湾田さんも、土屋さんも、Tさんも‥‥」
 そう言って彼女は自分のことをもっと詳しく打ち明け始めた。どんな宗派かは忘れたがキリスト教を信じていること。みさこ以外にも「マリア」と言う名前があること。その宗教の教えが自分の存在の基盤となっていること。静かに訴えるように、黙っていたことに許しを請うように、そして信念の強さを誇示すように、彼女の頬に一筋の涙が伝った。

  昔読んだホーソーンの『緋文字』という小説を思い出した。異端者の娘が胸にスカーレット色の文字を付けたままの生活を強いられるのだが、やがてその高貴な精神が町の悪習を変えてゆくという米文学だ。そんな時代はとっくに過ぎていたが、ちょうどなんとか教徒の輸血拒否のニュースが世間を賑わせていた頃だった。
 我が家は真言宗、ここ高松も弘法大師にゆかりの深い土地柄。彼女のために改宗することはできても、家族や親戚を説得する自信は無かった。
「哲学は疑うことが前提だけど、宗教は信じることを前提としている。」
知ったかぶりで古代ギリシャかどこかの哲学を持ち出しその場をしのぎ、結局気持ちを伝えぬまま、私はそそくさと香西港を後にした。

 彼女に会ったのはそれが最後になった。
 

   この夜の出来事は有頂天の私を一気に奈落に突き落とした。なんだろう。重い鉛の海を泳ぐような、気だるく投げやりな日々。宗教の勧誘のために彼女が私に近づいたのでは決してない。なのに私は卑怯にもキラキラ光る彼女との思い出を消し去り、未来の一抹の可能性からも遠ざけようとしている。
 こんな私を神様が見たら、きっとこれからの人生にとんでもない試練を与えたまうだろう。逆にこの世に神様なんかいなかったとしても、正義が私を良心の呵責に追い立てるだろう。

 消極的な気持ちのときはいつの間にか季節が過ぎ去る。その後しばらくは時間軸の記憶がない。会わなければ彼女の服装を覚える由もない。よって季節さえも思い出せない。

 そう言えば、一言だけでも謝ろうと、昼食時、彼女が働くフェリー通りの機械会社の近くで待ち伏せしたことがあった。白い看板の小さな平屋の事務所だ。しかし、2時を過ぎても彼女が休憩時間に外に出てくることはなかった。
 土屋哲夫は後輩だが3つ年上で人生の先輩。「そんなこともあるさ」と私を元気付けた。

 エリエールにも行かなくなった。ある雨の日の帰宅途中、駐車場からレストランの中の彼女を探したことがある。そのとき、コンコンと、誰かが車の窓をノックした。運転席のドアの窓ガラスをはさんで、見慣れた紺色のユニホームの首から下が見えた。決まりの悪さに照れ笑いをしながら、それでも期待に胸をときめかせて、恐る恐る名札を見た。残念ながら名札の主は酒田ではなかった。
 
「やあ、久しぶり。元気そうだね。」
白々しい私の反応にちょっとすねた素振りのその顔は、この店でいつも私の名刺伝達の仲立ちをしてくれていた、もうひとりのアルバイトのウエイトレス、秋山さんだった。
「みさちゃん探してるんでしょう?」彼女はいたずらっぽく続けた。
「みさちゃんなら先月、静岡の何とか言う福祉施設にボランティア活動に行ったよ。そもそも、そこで住み込みの奉仕をするためにあの娘(こ)ここでアルバイトをしてたのよ。‥‥‥当分帰って‥‥来ないわね。寂しくなるわ。」

 一瞬迷ったが、私は条件反射のように名刺を裏返してそこにメモをしたためた。

【昭和( )年( )月( )日( )時珈琲館で待ってます。】

 年内には会えないような予感がして、初めて名刺に年を書き加えた。わずか数年後に年号が変わるなどと、このときは思いもしなかった。
「もし彼女に会うことがあったら、‥‥‥‥どうしても渡したい物があるから。」
そう言って私は助手席の青い長3封筒を指差した。中には、帰る場所を失ったあの便箋と爪を折ったTDKのカセットテープが入っていた。

 水不足で知られる讃岐平野を細々と流れる当時の本津川は水の無い川だ。満ち潮に合わせて海水が逆流し、辺り一面磯の香りに包まれた。私の香西での記憶はその香りを最後に途絶えている。 


 それから3年が経ち、私は住み慣れた四国を後にした。転勤先は故郷の岡山だ。がむしゃらに仕事をし、いろんな人と出会った。さらに8年後、円満退社し独立。12年前、夢だった放送制作スタジオを建てた。どんな会社にもある栄枯盛衰を乗り越え、今では貧しくも平穏な日々を送っている。

 神様は、あれからの私の人生にいくつかの辛い試練を与えたもうたが、それでもちゃんと真当に生きて来れた。但し、かれこれ34年が経過した現在でも、時々無意識で口にしてしまう切ない歌がある。

   もしも生まれ変われたら あなたの声が聞きたいな
   きれいな心のあなたなら きれいな声で話すだろう‥‥‥♫

 宗教に対する、一昔前の云われもない偏見が、私の貧しい心を閉ざしてしまい、何の罪もないその見事な詩は歴史から永遠に葬り去られようとしていた。
                     

 岡山は先進福祉都市だと言う人がある。石井十次の孤児院は、私の生まれた東区の大宮学区で発祥した。今や世界の視覚障害者の自立歩行の道標となった点字ブロックは、岡山市中区の原尾島交差点で誕生した。AMDAの本部は北区にある。旭川荘もハートオブゴールドもがんばっている。東北の震災を逃れて移住してきた人の数は大阪府に次ぎ岡山県が2番目だそうだ。
 でも、市民にはなかなかそのような実感が無い。と言うのも、肥沃な平野に恵まれ、災害が少ないこの町で市民はおおむね豊かだ。豊かな分、行政はなかなかお堅く、人の痛みに鈍感な市民も多い。かく言う私も、高松での出会いが無ければ今頃ただの身勝手な中年男だったろう。

 1996年、当時所属していたある組織の付き合いで、私は講演会に参加した。講師の名前は「竹内昌彦」。この手の講演会は今まで幾度となく参加してきた。参加するどころか、仕事柄40回近くに渡って、自分で企画して運営した経験もあった。でもそのほとんどは結果論のサクセスストーリーだった。成功したから偉人と呼ばれ、社会の羨望を集め、講師として声が掛かる。そんな講師の話を聴くと、確かに勇気が出たが私にはとても真似ができなかった。感動はしても行動にまでは結びつかなかったのだ。
 でも、その講師を頂点にするピラミッドの底辺には、ほんの少し運はなかったが、人のために身を粉にして生きている人、成功こそしなかったが成功した人よりはるかに有意義な人生を送っている人、失敗したからこそ人を感動させる貴重な経験をしてきた人たちがたくさんいる。

 主催者から全盲と紹介されたその講師は、まずは面白おかしく自己紹介をし、社会の片隅で細々と生きてきた視覚障害者の悲しい宿命を聴衆に訴える‥‥‥ものと思っていた。冒頭から、暖房のよく効いたホテルの会議場でついうつらうつらしてしまっていた私は、約10分後、異様な雰囲気に目が覚めた。その人は、幼い頃、いじめられた相手の家に、砂場の砂をぶちまいたとか、泡消化器を逆立ちさせ教室中に吹き付けたとか、いじめられたら、自殺なんかする前にいじめられていることを全力で社会に訴えろと説いた。面食らった私はとうとう最後まで聴いてしまった。障害者も健常者も人の役に立つために生きて行けたら幸せだ。強く明るい希望にあふれたメッセージに会場全体が感動に包まれた。

 この先生との出会いが、私に大きなプレッシャーをかけた。蜘蛛の糸一本でぶら下がっていた、私の過去の記憶が静かにたぐり寄せられ、電子レンジで解凍されていった。帰路の車の中、気がつくと私は世界でたったひとり、自分しか知らないあの歌をまたもや歌っていた。

   もしも生まれ変われたら あなたの声が聞きたいな
   きれいな心のあなたなら きれいな声で話すだろう・・・・♫

 かなりひねくれてはいるものの私は普通の人間だ。ひとつだけ自分の長所を言えと言われたら、もらった感動はその場限りで終わらせず、必ずくれた人が歓ぶような行動でお返ししようとするところだ。
 世の中はとっくにインターネット時代。誰もがいろんな情報を直接世界に発信できる時代だ。さっそく自分に何ができるかを考えた。どう考えてもそれは先生の存在を知らない人にこの人の素晴らしさを教えてあげることだ。

 「日本の視覚障害者はまだいい方だ。社会が手を差し延べてくれているから頑張れば私のように家庭を持つことだってできた。でもアジアには‥‥‥」先生の夢はアジアの職のない盲人にあんま、マッサージを教える学校を造ること。そのための募金を集めながら講演活動を続けていた。長年の努力が実り、その学校がついにモンゴルに開校するにあたり、先生の活躍ぶりをドキュメンタリー番組で紹介した。すると今度はその情報を耳にした横綱白鵬がモンゴルの学校を訪問してくれた。この一連の出来事を同行取材した私を、最終的に友達みんなが支えてくれた。

 その中に一人、涙もろいが芯の強い、菊地正浩という名のアナウンサーがいた。さすがはプロ、しゃべることも上手だが聞くことも上手だった。あるパーティーの席上、私は彼に切り出した。
「菊地さん、実はあなたに相談に乗ってほしいことがあるんです。」

 アイデア豊富な彼は冷静に、酒田みさこに歌を届けるために考えうる、全ての方法を次から次へとリストアップした。

①まずはHPで名前を検索。Facebookも検索してみる。
②個人情報に寛大だった、Z社の古い住宅地図で近辺を当たる。
③エリエールやカツマタ機械で当時のことを知る社員を探す。
④高松市香西近辺のキリスト教会へ事情を話して問い合わせる。
 
5つ目を言おうとして彼は急にリストアップを止めた。
「湾田さん、それでもダメなら、最後の方法があるよ。」
そう言ってウインクをする菊地に、私は思わす聞き返した。
         ‥‥‥‥‥‥「最後の方法?」
 色めき立つ私を落ち着かせるような口調で菊地は続けた。
「最後の方法はあくまで最後の方法ですよ。どうしてもダメなときは、最後の最後に教えてあげましょう。」

 この頃から私は、竹内先生の「見えないから見えたもの」という著書を映画化することを思い立っていた。仲間に提案し賛同は得たもののお金は集まらなかった。そこで考えたのが「本編のない予告編」の製作だ。そもそも予告編というのは、すでに出来上がった本編からいいところだけを抜粋して作る。ところが私は、著書のいいところだけを映像にすることにより、まだ無い本編を見たくなってもらえるように作った。どうにかこうにか短編映画風に仕上がったのは、仲間の名演技があったからこそだ。砂を投げるシーンは19回もやり直した。最後は畳が重くなった。分業をする余裕のないなか、弱小企業ならではの得意技、シナリオから撮影、編集、ナレーションまで、役者以外は最少人数でこなした。結果、費用は、電気代と手間賃だけですんだ。

 二ヶ月に及ぶ撮影の合間を縫って、菊地メモの実践活動も始まっていた。HPでは三人ほどヒットしたが、どれも高松とは縁のない人たちだった。Facebookも同様だ。まして、あれほどの美人、結婚してとっくに旧姓になっているはずだ。ヒットするわけがない。

 Z社の古い住宅地図、これは探すのが相当難しいようだ。個人情報の保護が叫ばれる時代になればなるほど、これら昔の遺産は貴重になりどこかの倉庫の奥に紛れ込んでしまっていた。

 残りの2つは何れにしても高松に渡る必要があったが、取り敢えず④をと思い、高松市香西近辺のキリスト教会へ事情を話して問い合わせてみることにした。インターネットによると、その辺りには「高松北西キリスト教会」という名の教会がひとつあるだけだった。しめた!とばかりに電話した。

 「もしもし、私は34年前にお宅の教会に出入りしていたと思われる、当時20歳前後だった酒田みさこという方を探しているんですが。‥‥‥‥」
続けて、探している理由も丁寧に説明した。すると、
「私もその頃以前からここに住んでいますが、そのお名前は全く覚えがありません。おそらくここではないですよ。」
という丁重な答えが返ってきた。かなりの可能性の高さに期待していただけに私は肩を落とした。もはや近い教会から、一つずつあたってゆくしかないのか?そう覚悟した矢先、思わぬ朗報が飛び込んできた。                           
 
 岡山市の門田本町に新天地育児院という児童養護施設がある。そこの梅里拓志という友人は敬けんなクリスチャンだが、その彼がプロテスタント系の教会ネットワークを利用して探してくれるというのだ。
 
 そもそも彼は「拝啓竹内昌彦先生」の予告編で、竹内少年が尊敬する島村先生の役を快く引き受けてくれていた。彼の施設はどうか知らないが、この手の施設には近年、親がいない子供よりも、児童虐待に合った子供、両親が借金苦で逃げてしまったという子供の方が多いらしい。胸が締め付けられる話だ。
 
 今回の事情を説明すると、彼は澄んだ目を潤ませながら最後まで聞いてくれた。
「クリスチャンは県を越えた横のつながりが結構活発です。34年も前となると自信はありませんが、高松近辺の知り合いに聞いてあげましょう。」
一回りも年下なのに、私よりはるかに重い社会を背負って生きてきた彼の気持ちがありがたかった。
 
 希望が見えてきた。この調子ならいつか彼女の消息がつかめそうな気がした。そこで私は、その夜、千里スタジオの倉庫のテープ素材の整理棚から、例のTDKのカセットテープと詩の原簿を持ち出した。青い封筒から取り出した詩の原簿はすっかり黄ばんでいて、折り目に沿って黒いシミが浮き出していた。長く疎遠にしていた親戚に会うようで申し訳なく思った。

 テープはというと案外綺麗だ。綺麗であればあるほど、34年に渡る記録メディアの変遷のなか、よくぞ今日まで生き延びて来たなと誉めてやりたい。が、カセットデッキが無い。既に夜中の10時を回っていたが、友達に電話をして借りに出かけた。外は季節外れの雨が嵐に変わろうとしていた。翌日でもよかったが、なぜかどうしてもすぐあの音を再生したかった。社有車のカローラワゴンが君津交差点の青信号を通り抜けようとしたその時だ。嵐の中、信号無視の古い軽四がノーブレーキで私の車に突っ込んできた。けたたましい音が響き、車の右のフェンダーが宙に舞うのが見えた。
 
「豪雨の中、岡山市東区で普通車が炎上!運転手は奇跡的に無傷。」翌日の夕刊の片隅に私は小さく載った。事故の相手も軽症で済んだ。深夜勤務に向かうパートのおばさんだった。
「あの雨の中です。お互い様ですよ。保険が効くのでご心配なく。」
翌日、菓子箱を手に謝罪に来たおばさんに私は言った。
 車は保険でなんとかなったが、大切なものが燃えてしまった。歌詞が菓子になった。カセットテープはただの溶けた箱になった。

 詩や歌のいいところは、形がなくなろうとも死なないところだ。ひとりでも愛する者がいる限り、詩や歌は生き続ける。それを愛する人が増えれば、詩や歌は広まる。そしていつしか、永遠の命を持つ。Tさんの見事な詩に、酒田みさこの美しい心に、願わくば永遠の命を与えたまえ。
 
 2013年9月、全く新しい音源で、その歌が復活する日が近付いた。昔、下手くそなギター伴奏で私が吹き込んだ雑音だらけの歌を蘇らせるために、バンドが結成された。リードボーカルは去年まで東京のミュージカル劇団で活躍していた合田友紀。バックコーラスとハモリは、オーメンズという女の子3人組だ。サイドギターは木下郁希、ピアノは吉井エリー、バイオリンは梅里拓志、ウッドベースは私が担当する。私を除いては、岡山の音楽シーンを代表するすごい面々だ。全員がボランティア協力を快く受けてくれた。
 ひと月後、さらに嬉しいニュースが舞い込む。リードギターに、絶対治らないと医者から言われた聴覚障害を、みごとに克服した奇跡のギタリスト、三好伸吾が加わってくれることになったのだ。緊張の初練習は南区の千里スタジオだ。
 
 予め、譜面を各自にメールしていたため、最初から素晴らしい演奏となった。静かに始まる一番、二番三番と次第に音に厚みが増し、最後は全員で大合唱だ。素人の作曲ならではのメロディーの素朴さが、かえって詩を光らせた。どんなメロディーかって?強いて言うなら、NHKの震災復興ソング「花は咲く」に似たイメージだ。でも、間違えないで欲しい。私たちの歌は34年前から、すでに存在していたのだから。
 
 それにしても合田友紀の歌声は素晴らしい。完璧な音程、声量豊かなくせに抑え気味な発声、控えめな感情移入、それでいてしっかり演奏者の気持ちの高ぶりまでコントロールしている。トップミュージカルの世界で伊達に10年を費やしてはいない。彼女には昔、岡山の大手金属リサイクル会社や回転寿司のコマソンを歌ってもらったことがある。声を聞いただけで、ああ、あの曲か!とピンときてもらえるはずだ。

 練習の休憩時間、この歌の起源をメンバーに紹介した。梅里拓志と三好伸吾は既に熟知していたが、その他のメンバーにはまだそこまで詳しい説明はしていなかった。皆「よし、やろう!」と納得してくれた。木下郁希は「生きがい創り」という名のNPOの理事長だ。
「“何も聞こえない”?‥‥そのうえ手が動かない人の詩を34年も放置するなんて信じられない。早く聞かせてあげて、Tさんの生きがいにしてあげなくては。‥‥‥でも!‥‥‥聞こえないんでしょう?」
今まで誰ひとり敢えて口にしなかった、活動の根幹を揺るがしかねない重大な疑問を、彼は徳永英明によく似た“レイニーブルー”な声で囁いた。

 一瞬、“壊れかけのラジオ”のような不協和音が響き、その後スタジオにしばらく沈黙が流れた。

「大丈夫。聞こえなくても伝わるよ。伝わるからこそ、彼女はぼくに曲を付けて欲しいと頼んだんだ。」
私の“最後の言い訳”に皆がうなずいた。

 もうすぐ11月だ。夏が長く、急に冬が来ると天気予報が予言したとおり、練習場は半袖から一気にセーターになった。三好伸吾だけは未だに練習中は半袖のままだ。いろんな人間がいるようにいろんな植物がある。彼の家の庭には今でもひまわりが咲いているらしい。

 話は変わるが、吉井エリーは11月23日の夕方に岡山市民会館で予定していて、どうしても一千人を動員しようと、映画化委員会が日夜這いずり回っている「竹内昌彦講演会&予告編上映会」のチラシを、自分の音楽教室の生徒たち5百人に配ることを申し出てくれた。エリーとはそういう女だ。

 オーメンズから練習に加わった3人は、なぜか黄色いお揃いのTシャツで振り付けの練習を始めた。
「いくら振り付けを練習しても、CDで聞くときは見えないのでは?」
木下郁希が言った。
 無論そうだが今回は違う。聴覚障害の人には振り付けが大きな意味を持つ。いっそ手話の映像入りDVDにしてしまえば耳の聞こえない人にもリズムと気持ちが伝わるだろう。

 その日から毎週水曜日の午後8時からが練習時間となった。単調なメロディーのくり返しを避け、3番と4番の間にバイオリン、5番の後にピチカートの間奏が加えられた。コーラスの息もぴったりと合ってきた。5週目の練習後、リーダー格の吉井エリーが言った。
「完璧よ!あと、聞かせる相手さえ見つかればね‥‥‥‥」
 明日、10月31日、私は高松を目指す。                                 
 
 その朝、私は瀬戸大橋を南下。連休前にぽっかり空いたスケジュールを利用して高松へ向かった。途中で面会するいろんな人に、こちらの切なる願いを理解してもらうために資料も整理した。詩をカタカナで文字打ちし直したもの。それを漢字と平かなに変換したもの。その人がいつ頃、どこに住み、どこで働いていて、どんな特徴を持った人か?当時彼女が21歳だったとすれば34年経った今は55歳前後だが、必ず年相応の瑞々しさを保ち、涼しい目元をした面長美人であり、間違いなく周囲の人から愛され慕われているはずだということも書き留めた。ストーカーと間違われては全てが無になる。

 インターチェンジのある中間(なかつま)から国分寺経由で11号線を横切って旧道へ。まず向かったのは香西のエリエールだ。ところが、そこには悲しい風景が広がっていた。ファミリーレストランの名残は全くなく、在るのはパチンコ店のみ。34年の歳月は見事なまでに実在の証拠を消し去っていた。インターネットで検索するも会社の沿革にすら香西店の名前は無かった。本社は四国中央市、さすがにこの日は、そこまで行く余裕もなければ電話で問い合わせるほど厚かましくもなれない。
 仕方なく港方面へ向かう。だが、そこも昔の名残は無い。在るのは巨大なショッピングモールだけだ。野球場へ向かう懐かしい道を逆戻りして高松の市街へと。

 おそらくここが今日最後の手掛かりだろう。フェリー通りのカツマタ機械だが、やはり移転していて跡形もなかった。琴平電鉄の錆びたレールが幾重にも連なる踏切は昔のままだった。このレールが私を過去に運んでくれたら、などと馬鹿なことを考えながら、昼食は百間町のうどん屋に入った。

 東奥に古い塀の料亭があった。二蝶という昔顔なじみだった店だ。玄関の網張りの行灯看板に「一期一会」と書かれている。いまでは聞き飽きたこの熟語も、当時は知る人もなく新鮮だった。文字通りみさこにこのまま会えないとしたら‥‥‥一期一会の気持ちを蔑ろにした当時の自分が悔やまれてならない。

 さて、iモードでカツマタ機械の移転先を調べると木太町と出た。そもそも昔、その会社が何の会社だったのかさえ知らないが、検索エンジンが教えてくれた情報によると、現在では東京スカイツリーのエレベーター工事を請け負うほど大きな会社に成長していた。
 これから行くのはその高松営業所だ。                                  
 
 木太(きた)町は、高松旧市街から屋島に至る南北に長い海抜の低い一帯にある。この都市でおそらく最も急成長したエリアだろう。住所が特定できたのではこの会社に申し訳けないので、敢えて木太町とだけ記す。乾いた砂が浮き出た敷地外の路肩に遠慮気味に車を停めた。小さな営業所だが社員はよく教育されているといった様子だ。総務担当らしい若い社員が応対に現れた。嫌な予感。案の定、「個人情報」の4文字を連発した。

 日本の国は一体どうなってしまったんだろう。ここは一億総責任逃れの、リスク完全回避型国民しか生き残れない国家なのか?あらゆるものに潜む僅かな意外性や、罪人の心の底のかすかな良心の芽生えなど、バッサリ切り捨ててしまう教育を、社会を挙げて推進する国家なのか?
 私ならこう言うだろう。
「こういったお話は会社ではお断りする決まりになっています。でも、個人的に大変感銘を受けましたので、少しだけ会社の外でお話を聞かせていただくわけにはいきませんでしょうか?個人的に精一杯お力にならせていただきます。」
 
 これ以上食い下がろうが、取り付く島もない。かといって書類を置いて帰ったのではそれこそみさこの個人情報が危険にさらされる。万策尽きた私は途方にくれた。帰りは高速道路を使わず坂出まで国道11号線を走った。その昔、土屋哲夫の誕生日を祝った喫茶店、シカが見えた。  
 
 土屋は誕生日を祝った翌年、もう一度東京でやり直したいと会社を辞めた。彼が志度マリーナに所有していたディンギー(小型のヨット)の面倒を見てくれと頼まれたが、私もおそらく転勤が近いからと断ったため別れ際がギクシャクした。年賀状も2年で互いに出さなくなった。人の絆は所詮そんなものだ。自分のやっていることがばかばかしく思えてくる。もうやめよう。みさこを見つけて歌を聞かせたところで今さら何になるというのか。自分のしたことを詫びたところで、相手はとっくに諦めている。
「覚えてくれていたんですね。34年も過ぎたというのに、こんなにいい歌をわざわざ届けてくれたんですね。あなたの優しさに感動しました。」
などと、褒めて欲しいだけの自分勝手な人探しに過ぎない。「募る想い」というが、偽善を装う余り、会いたい気持ちを制御する感覚が麻痺している。

 もう一度、あの歌を歌ってから、今回のことは全て忘れてしまおう。と、2番まで歌ったとき、ふとTさんの気持ちが乗り移った気がした。この詩は障害を持つ者が単に自由になりたいと願った詩ではない。歌えば歌うほど、あきらかにみさこに対する苦しい気持ちを表現したものだ。  
 自分のために貴重な時間を割いてくれる女神のようなみさこに対し、持ってはならない感情を必死で抑えようとしている詩だ。いつかは彼女の前に「必要とされる人間」として生まれ変わりたい。彼女の力になりたい。生まれ変わってでも彼女にふさわしい人間になりたいという詩だ。自分のことなどこれっぽっちも考えていない。

 歌いながら、吹き出る涙で視界がぼやけた。11月8日、PTAの元役員として出席を約束した式典がある。その後の時間なら空いている。もう一度この会社に頼んでみよう。今度はTさんの気持ちになって頼んでみよう。         
 
 その夜、冷静になって現状を整理した。インターネット社会では一見、どんな情報も簡単に手に入るように思われがちだが、全く逆だ。個人情報が際限なく世間の目に晒されるからこそ、情報の管理は1000倍厳しくなったとも言えるだろう。もし、どうしても欲しい情報があって、その情報をガードしている様々なバリアを取り除きたいなら、それは「正直」になることだ。

 横綱白鵬に竹内昌彦先生を紹介した高山林太郎という男がいる。いかにモンゴル繋がりがあるとは言え、白鵬が会ってくれるわけがない、と誰もが思っていた。でも彼は平然と大相撲協会へアポを取り、資料を送付し、申請書を提出した。結果はOK。

 彼は宮城野部屋へビデオカメラマンの私を同行させ、7分間に及ぶ微笑ましいビデオレターを撮らせた。帰り際、竹内昌彦先生に会いたいと願い出たのは誰あろう、横綱白鵬その人だった。その後の白鵬と竹内先生の心温まる交流はここから始まる。「先入観なき正直さ」それは時として固い扉を開く突破力となる。

 私はもう一度、カツマタ機械のホームページを覗いた。40歳位の精悍な若い経営者がじっと未来を見つめている。名前は中村四郎。高度成長期に段階的に業績を伸ばした企業が、この若いリーダーを得て一挙に花開いたかたちの会社だ。世界に広がるネットワークと並行して、社長の趣味も紹介されていた。
 40歳?私はふと考えた。こんな若い経営者なら、もしやFacebookをしてはいないか?もし友達になれれば元社員の消息のヒントを教えてもらうことはいともたやすい。検索。どこにでもある名前とあって、漢字で打つと、12人ほどがずらり並んだ。すかさず「結果をもっと見る」をクリック。出身大学で明らかに違う人が特定できる。但し、顔写真の無い名前も驚くほど多い。さすがにこんなでっかい会社ともなると、うかつに経営者の顔をFBを掲示するわけにはいかないのだろう。

 それらしい列をひとつずつ潰していくうちに、ひとつだけありえない情景を顔写真に流用している人にぶつかった。「+1友達になる」のマークさえ無い。その顔写真とはジャパネスク調の紫、赤、緑に塗り分けられたリッチなクルーザーだ。恐る恐るクリック。出た!ほとんど白場のタイムラインだが、一番下の「最近のアクティビティ」の蘭を見た瞬間、笑みが出た。
「中村四郎さんがカツマタ機械株式会社について『いいね!』と言っています。」 

 年商100億の会社の若き総帥に、突拍子もなくメッセージを書き込む勇気があなたにあるだろうか?私はそのページを一旦「お気に入り」に加えて、バッサリ閉じた。そして自分のライムラインへ移動して自分の友達の一覧を開いた。いるいる!年商100億クラスの社長さんはなんと6人もいた。そればかりか年商200億の会社の副社長さえ毎日真面目なコメントをよこしている。FBに貧富の差や体型の差は無い。かくして片道切符のメッセージ欄への記入が始まった。

 「拝啓、中村四郎社長様、突然メッセージをお送りさせていただくことをお許し下さい。私は湾田船夫と申します。話せば長いことながら、実は34年前、御社の高松営業所に勤めていた方を探しています。とはいえ、いまどきすぐに信じていただけるとは思っていません。その方を探すに至った経過を詳しくご説明していますので、少々長いですが私のタイムラインの『モシモ ウマデ カワデタラ』という投稿小説をお読みいただけませんでしょうか?また、『モシモ ウマデ カワデタラ』の詩に曲をつけて、皆で歌っている練習風景の動画ファイルも添付させていただきました。もしお読みくださり、私のことを信じていただけるなら、ぜひ彼女の当時の在籍記録から連絡先を辿り、私の現状と連絡先をお伝えくださいませんか?どんなことがあろうとこちらから連絡を取ったりはいたしません。既に34年待ちました。ご返事いつまででもお待ちいたします。 敬具」

 カチッ!形容し難い鈍いエンター音とともにその文章は何も知らない中村社長のアドレスめがけて光速で旅立った。
 だんだん推理小説めいてきた。この小説はフィクションですと言いながら、ここまで具体的記述を続けていることに不安を覚える。
 ここまでで3つのコネクションが浮上した。

◎敬けんなクリスチャン、梅里拓志君が、横のつながりが活発な教会のネットワークを利用して探してくれるコネクション。 
◎カツマタ機械の中村四郎社長のFBを通じたコネクション
◎そしてあと一つ、菊地正浩アナウンサーの言う最後の手段に頼るコネクションだ。
 
 私は心配してくれているだろう菊地アナウンサーに現状を報告した。そうかそうかと彼は喜んでくれた。
「最後の手段は使う必要がないみたいだね。」
「ありがとうございます。」
 11月2日、3日、中村四郎社長からの知らせは無かった。翌日もその翌日も知らせは無く、5日目の夜が雨だった。今日も無しかと見つめた受信箱に、一通のメッセージが届いていた。

「湾田船夫様 全部拝見しました。久しぶりにほのぼのとした気分にさせていただきました。しかしながら、こういったお話は会社ではお断りする決まりになっています。
 でも、個人的に大変感銘を受けましたので、少しだけ会社の外でお話を聞かせていただくわけにはいきませんでしょうか?個人的に精一杯お力にならせていただきます。」

 さすがは総帥、ユーモア感覚も半端ではない。どこかで見た文章が、そのまま記されていた。

 粋なコメントは、たった一度で心が通い合う。友達を必要としなかったはずのFBの窓が、私のために解放された。早速メッセージを書き込まなくては。ここが腕の見せどころだ。

 「ひとりの女性が、私の心の中で34年の眠りから覚めようとしています。彼女を起こすか、そのまま眠らせるかは、あなたの決断次第です。もし起こしてくださるなら、あなたの家族は将来、全員極楽に行けること間違いありません。」

 光ケーブルの中をいろんな宗教が入り乱れて飛び交うのが見えた。ちょっとふざけすぎたかもしれないが、「拝啓竹内昌彦先生」予告編で末藤という名の坊さんが喋る、私が最も気に入っているセリフのひとつを記した。

 「明日にでもそちらの会社にご面会に伺いたいのですが。」
とメッセージ欄に打ち込むと、その日11月7日は歌舞伎の席をとってあるので会えないと言われた。私ががっかりする暇もなく次のコメントが入った。

 「その代わり、11月8日なら四国方面に出張するついでがあるので午後、都合のいい時間に高松営業所でお会いしましょう。」
11月8日!?その日は何と私が元PTA会長として招待されている地元高校の周年式典の日。元々、式典終了後の空いた時間に、高松に行こうと心に決めていた日だ。面会の時間は午後4時に決まった。

 翌々日、私は地元の高校の40周年式典に参加した。いろんな立場の偉い人が挨拶をされ、最後に全員が校歌を歌った。

 笹ヶ瀬の 流れは永遠に 湖わたる 風さやけく
芳しき 泉の学園に 健き意 磨き
若人の力 示さん (※3番から抜粋)
 途中、ステージに現れた男女4人の生徒が歌いながら急に肩を組んだ。その微笑ましさに拍手を贈る間もなく、後方から異様な雰囲気が迫ってきた。振り向くと2000人近い生徒、教師、関係者が同様に肩を組んで渦を成すように大声で歌っている。一瞥で目頭が熱くなった。すごい!これが歌のパワーというものだろう。耳が聞こえようが聞こえまいがこの光景自体が、命ある者の感動を揺り動かす。

 勇気百倍!満充電した私は、JR岡山駅でお土産の「点字ブロック発祥の地饅頭『幸せの黄色い道』」を買ってマリンライナーに飛び乗った。目指すは34年前、いにしえの高松。 

 JR高松駅は久しぶりだ。人の流れに乗って外に出た。ちょっと背伸びした観のある高層ビルがのしかかる。父が船乗りだった関係もあり、私はこの駅の変遷を半世紀見てきた。幾度となく連絡船経由で金毘羅参りに行った幼少時代。大学時代は土讃線で4時間近くかけて高知へ行ったり来たり。その後特急「南風」がデビューしたがほとんど恩恵に与かることはなかった。そして社会人時代はもっぱらフェリー。岡山に転勤してから、瀬戸大橋を走るマリンライナーが開通したものの、車で橋を渡った方がフットワークがいいのでめったに乗ることもなく、JR高松駅にも立ち寄らなくなっていた。

 慌ただしさのあまり朝から何も食べていなかったので、兵庫町のうどん屋で天ぷらうどんを食べようとした。そのとき、不思議なことが起きた。ポトンと落ちた一本が、なんとト音記号の形に!あまりの見事さに我が目を疑った。1万回落としてもこんな形にはならないだろう。神を信じない唯物論者の私でさえ、今日これから起きることへの福音であることを確信した。

 木太町まではタクシーを使った。営業所の無人窓口のチャイムを鳴らすと、今日は女性社員が出てきて、パーテーションで区切られた狭い商談室に私を閉じ込めた。
 5分後、社長がさっそうと現れたかと思うと名刺交換もせず、私を駐車場のマツダ車に誘った。着いた所は近所の寿司屋だ。握手をしてから自己紹介もそこそこに本題に入った。
「なかなか面白いFacebookですね。映画をされているらしいですが、実は私も兵庫県の三木市で竹内先生の講演会に参加したことがあります。」
「え?そうなんですか?」

 「私の同級生が県の教育委員会にいまして、その付き合いで。
感動で目が真っ赤になったのを覚えています。」
「世の中狭いもんですねえ。」
という私の言葉にやや表情を曇らせた中村社長。

「酒田さんの件、すぐ総務部に調べさせました。確かに誰からも愛される魅力的な娘さんだったようで、高松営業所の古株の社員がよく覚えていました。何でも岡山のミッション系の高校へ進学した後、短大を出てから入社し、3年と7ヶ月間高松営業所で働らき、一身上の都合で退職されています。当時の住所と電話番号も残っていたので、それとなく私本人が電話してみたのですが、現在使われていないようです。慌ててその住所の場所を検索してみると、ちょうど5年ほど前にできた巨大ショッピングモールがヒットするんです。‥‥‥‥つまり立ち退きになったか、そのもっと以前に引っ越したかのどちらかだと‥‥‥‥‥。」

 カツマタコネクションが可能性から消えた。

「貴重なお時間を、ありがとうございました。」
がっくり肩を落とした私を中村社長は高松駅まで送ってくれた。途中、干潟なのかドブ川なのか分からない詰田川を下った。川に沿って立つ電線に、ムクドリの大群が乱れ飛んでいた。そろそろ渡りの季節だ。
 土産を渡し、深々と非礼を詫びて別れた。100億企業の社長の友達は、これで7人になった。
 
 
後編につづく
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