代表取締役 山本 守 (ペンネーム/湾田船夫) 

●イベント&販促プランナー●コピーライター●ソングライター

●映像作家●ナレーター●演出家●小説家●映画監督

 この道30年

CM製作総数・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・約500本

企業・商品紹介動画製作総数・・・・・・・・・約90本

コマソンサウンドロゴ製作総数・・・・・・・・・約20曲

 

湾田船夫は言った。【楽しくなければ人生じゃない。】

60年間のプロフィール

二度と聞けないボーイソプラノ

 幼年時代は天使の歌声と持て囃された。本当に歌がうまかったと自分でも思う。但し声変わりするまでだった。

この頃から手先が器用で、6歳で針金で鍵を開けることができた。でも、悪の方向に進まずにすんだ。

カミキリムシの好きな紙

  日本中でここだけ。故郷、大宮小学校区に伝わるカミキリムシの捕獲方法。都会の子は絶対知らないこの方法だが、当時は板垣退助の百円札が使われていた。貨幣の価値が下がるにつれ捕獲数が減ってきた。

 

ニックネームは糸楊枝(いとようじ)

  中学校、大阪万博にて。行列嫌いで、結局ブラジル館しか入らなかった。この性格はいまだ尾を引き、ディズニーランドは「イッツァスモールワールド」のみ、ポートピアはビアガーデンのみ、瀬戸大橋博は「四国館」しか入っていない。当時のニックネームは「糸楊枝(いとようじ)」。あまりに細かったので家族は心配していた。

将来はアナウンサー

   高校時代は西大寺高校放送文化部部長として活躍。NHK高校放送コンクール岡山予選において、難攻不落の就実高校の牙城をラジオドキュメンタリー2部門で撃破、全国大会でも上位入賞を果たす。その後数年間、西大寺高校は一躍、県下高校放送部の雄として君臨したものの、本人は歯並びの悪さから破擦音の発音が苦手。オリジナル早口言葉にこだわるのはそれが理由だ。

 

船夫を眠らせ、船夫の屋根に雪は降り積む

   大学時代は一転、アコースティックベースに挑戦。約20曲のオリジナルソングを書いた。仲間と学生会館の2階で夜遅くまで練習した思い出は宝物だ。まぎれも無くフォークソング全盛時代のちっぽけな欠片だった。

クールファイブ

  大学では英米文学を専攻。22人の専攻生の中に男子は5人。ポンコツのマツダのボンゴで四国中を放浪する。ところが4年目、5人全員が留年という前代未聞の珍事が発生。左から高須君、橋詰君、仮屋君、武政君、山本君。

就  職

CMディレクターに憧れて、高松に本社を置くS広告社に就職。厳しいノルマと楽しい上司の狭間で理想と現実のギャップを痛いほど知る。4年後、カタカナの広告用語と理論武装を叩き込まれ、スーパーアドマンに変身し岡山に。業界に数々のレジェンドを打ち立てる。

結  婚

 26歳、電車の中で出会った小学校教師と結婚。彼女の家に挨拶に行ったとき、緊張してなかなか言うタイミングがつかめない。「お父さん、娘さんを僕にください。」「お父さん、娘さんを僕にください。」「お父さん、娘さんを僕にください。」・・・・・・・・・・・・・・・・・何度も練習して臨んだが、どもりながらもやっと言えた一言は、「お父さんを僕にください。」

ついつい真ん中を省略してしまった。

ヒツイシザウルス

 瀬戸大橋開通の前年、「ヒツイシザウルス」を擁して東宝のゴジラに対決を挑もうとする。デザインは教師だった妻が教え子に描かせたもの。生徒を引き連れ、新幹線に乗って京都の東宝本社へ挑戦状を持っていこうと画策した。「ヒツイシザウルス」とは瀬戸大橋工事の衝撃で太古の眠りから覚めた怪獣。総工費6万円、3か月の製作期間を経て誕生した。TV、新聞、タウン情報おかやまなどで紹介され、ついに、某局のゴールデンタイムの番組から櫃石島での出演依頼が舞い込むのだが・・・・・・・・これ、本当の話。山本が20歳代に最も情熱を傾けた造型作品だ。以来、夢を叶えることの象徴的存在となった。

家    族

  家族は5人。長男は私似、次男と長女は妻似だ。それぞれが、親の悪いところばかりを受け継いだ愛すべき性格だ。ありがたいことに、全員一人前に育った。長男はテレビ局、次男は地場の会社に就職、長女は小学校の教師になった。安穏と生きるな。憤りを放置するな。社会の向かい風を受ければ受けるほど、お前たちは高く飛翔するだろう。

株式会社千里コーポレーション

  平成5年、会社設立。千里コーポレーション代表取締役に。豊成3丁目の2LDKマンションで広告&SPプランナーとして旗揚げ。広告代理店時代のレギュラー出稿は一切会社に置いて出た。しゃにむに働き、4年目で中古社屋を購入。広告代理業から制作業へ華麗なる変身を遂げる。人も増え、7年目で売り上げは1億に迫る。映像メーカーとしての一億は凄い数字だ。この頃が一番良かった。社員が増え手狭になったため、調子に乗って新社屋を建設、バブル崩壊。

 

市長特別表彰

 平成14年 市長特別表彰をいただく。当時まだあまり知られていなかった「男女共同参画社会」の普及ビデオの製作を、予算があまりに少ないのできっぱり断って、無料で引き受けた。その代わり、全国に売らせていただくという、「リスク負担型社会貢献」を提案したところ大成功。この運動に関し、岡山市が全国をリードするという意外な図式が出来上がった。タイトルは「私を柴刈りに連れてって」。昔話ではおばあさんが洗濯と決まっているが、たまにはおじいさんが洗濯でおばあさんが柴刈りに行ってもいいのでは?というコンセプトだった。

千里スタジオ

  当時組んでいた初期のシステム図。このアナログ回路に際限なくノンリニアデジタル回路が加わり、総額4000万円を超えるポストプロダクション機能が完成する。この頃から既に、アルファチャンネルを有する6つのハードディスクの連携で、ハイビジョンをD1フォーマットで出力していた。しかしそこまでのパフォーマンスを求められる仕事はほとんど無く、D1テープは一本4万円以上。採算割れの仕事が多かった。

点字ブロック世界発祥の碑

  岡山市中区原尾島交差点に建立された、点字ブロック世界発祥の碑に、2行の碑文を提供。「暗礁を恐れぬ希望の眼となれ ここから世界へ ここから未来へ」             私が死んだら、碑文の下に小さく名前を掘り込んでもらう約束になっている。人生には限りがある。でもこの文章は永遠に残る。

横綱白鵬

  横綱白鵬と5年に渡る親交がある。日本で4回、モンゴルで1回お会いした。毎年、季節の挨拶を欠かさない。が、宮城野部屋から来たことはない。でも信頼は厚い。厚いはずだ。厚いに違いない。厚いかもしれない。厚いと信じたい。厚いのが望ましい。(笑)

 

どこでも窓

   この頃、「どこでもドア」ならぬ、「どこでも窓」を発明。これはネズミの駆除にとてつもない効果を発揮する特殊なアイテム。これひとつで効果抜群。企業秘密の関係でこれ以上は説明できないが、生活が一挙に楽になる。(笑)

 

「拝啓 竹内昌彦先生~本編無き予告編」

  儲かったお金で竹内先生の短編映画を作る。タイトルは「拝啓竹内昌彦先生~予告編」。世界初の「本編のない予告編」だ。写真はその完成上映会にて。岡山のトップ俳優?が顔を揃える。これを機に県内外で無数の上映会を開催中。映画化実行委員会で2000万円を集めて同名の本格映画を目指す。

映画化運動

   ある程度募金の目処が立ち松山へ。宮本信子に出演依頼に行くが、アポを取ったにもかかわらず資料を突き返され、途方に暮れる。ひたすら伊丹十三を崇拝してきたが、これを機に「岡山の伊丹十三」という看板を外す。

世界初、フェイスブック連載小説

 映画監督業を志しながら、作家活動。処女作「ペガサスの舞い降りるテラス」、「転校少年Z」、「モシモウマデカワデタラ」、「さらばヒツイシザウルス」を相次いで発表した。ペンネームは「湾田船夫」、“湾田船夫小説”と検索すれば、長短5編の小説と無数の映像作品に出会うことができます。

                        電車にポスター広告

読者を増やそうとある日、電車一両ごと吊り広告を敢行する夢を見る。しかし読者は増えなかった。(笑)

自主映画「見えないから見えたもの」

2014年、7月20日、西大寺の五福通りの一角の民家でクランクイン。オーディションで選ばれた優秀な俳優さんたちに助けられ、順調な滑り出しとなる。劇中のでっかい西瓜は手作り映画の象徴として自ら栽培した。

岡山県を中心に行われた完成報告上映会には異例の一万人超が押しかけた。

NHKラジオ全国放送に登場

母校で講演

社長の携帯番号 090-1687-2383